「するとサムエルは言った。『主は主のみ声に聴き従うことほどに全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪に勝る。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたの王位を退けた。』」 Ⅰサムエル記15章22‐23節
多くの方が、いやクリスチャンの中にもたまに見かけるのですが、キリスト教は束縛する宗教だ、あれしてはいけない、これをしてはいけない、あれをしなければいけない、これをしなければいけない…でも本当にそうなの?
神様にとっては私たちは大切な子ども。親は決して子の不幸を願わないんです(まあ肉の親は弱く、残念ながらそうではないご両親もたまにいるのが残念なところですが)。だから大切な私たちが罪の中に進むことがないように、神様はそっちにいっても命はないよ、と声をかけている…
例えばシンプルな話、、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、それはそうですよね。他には逆に貧しい人のために落穂ひろいの際に零れ落ちたものは拾わず、生活困窮者のために残しておきなさい、とか、屋上に、今でいうなら手すり的なものを付けるように、とか。そう、神様は人を束縛するために語るのではない、神様にある自由、いのちあるものとなるために語られるんです。
神様が一番最初にエデンの園で定められた約束はただ一つ、「神様のお言葉に従う」それだけ。それは今言ったように奴隷のように束縛するためではなく、自由、私たちが命あるものとして神様と共に歩めるよう語られているに過ぎない。私たちが神様にあって幸せであるように。
ところが、私たちはそんな神様のことばになんていのちはない、と離れていってしまった。今日のみことばも、サウル王という人が何度となく神さまから離れていってしまった。確かに肉的には成功しても結局のところそこにはいのちはなく、ついには王位さえ退けられてしまうのでした。私たちもまさにそれで、何度となく神さまから離れ、私たちは本来神様の喜びの子であるはずが、そのくらいを退けられてしまったのです。
ところが、神様は私たちがそうして神様から離れ、ただただ死に向かっていくそのことにたえることができなかった。だから、ご自分の御子イエス様を神であるというところから退け、私たちのところに人として住まわせてくださった。そして私たちが本来永遠に神様から退けられなければいけないところを、代わりにすべての罪を背負って十字架に架かられ死なれて罰せられ、3日目によみがえられたことによって、イエス様を自分の罪の身代わりとなって十字架に架かられたと信じ受け入れる者に、神様の子としての特権、いや退けられたものから、神様のもとに引き戻されるのです。もはや奴隷人ではない、イエスキリスト様があなたの内に住まわれ、あなたと共に生きてくださるのです。そして死して後には神様と共に永遠に住まうという素晴らしい恵みに預かるのです。
ご自分の御子イエス様の王位を退けられてでもあなたのためにいのちを惜しまず与えられた神様は今日、あなたが悔い改め神様の元に帰るこ事を願っておられる。剥奪されたものから、神様の子とされるのです。そこにいのちがあるのです。どんなこの世のものにも勝るいのちがそこにあるのです。そしてそれほどまでに愛され、あなたの幸せを願い語られる神様の声に日々耳を傾け、従う者になりたいですね。それほどまでに愛された神様ですから、あなたのために王位まで捨ててでも、死に至るまであなたのどん底にまで来られた主があなたを導かれるのだから。