引越して来たこの家に不満はない。日当たりは良いし風通りも良い。遮音性も保温性も結構いい。車庫もあるし、部屋も広い。


 ある日の深夜、寝室の換気口のあたりから「ひううううう」という女の泣き声ともとれる音が聞こえ、僕は思わず起き上がって身震いした。それからじっと聞き耳を立てる。何もない。なんだ、風の仕業か。とそのまま寝入った。

 

それから数か月後、また「声」に起こされる。

「ひううううう」

暗闇に身を起こし、耳を澄ます。

「ぴゅううううう」

手を伸ばして蛍光灯をともす。なんだ、やはり風の悪戯じゃないか。目を上げて時計を見る。140分。

 

それから更に数か月。「声」に起こされる。寝たまま換気口の方向に左耳を向け、息を止める。「ひううううう」また風か。右手を伸ばして紐を引く。蛍光灯がともる。140分。

 

そして昨夜。眠って居ると、右手奥のドアが開いて閉じる音がした。目を覚まし、ドアの方を見て何かが居る雰囲気を感じ、とっさに妻だと思い「どうした。」と声を掛ける。返事はない。

暫く様子を見る。今は真夜中でカーテンを閉めているから闇だ。だがしかし、今の外は室内より明るい。カーテンの隙や繊維の間を通して光は入ってくるし、目も慣れてくる。ドアの前に黒い何かの上半身が座っているのがわかる。僕はそれが妻だと思う。

「おい、どうした?何かあったか?」

返事はない。変だな。あいつは何をしているんだ?そう思いつつ右手を伸ばそうとして、金縛りにかかっているのを知る。そして、その瞬間に換気口から「声」が聞こえ出した。

「ひうううううううううう」

体が動かない。焦って両手足の指先に神経を集中させ、末端から動かそうと試みるが、なかなか動かない。と、ドアの前の真っ黒い何者かが、徐々にこちらに近づいて来ているのがわかる。ずずずずず。と床の擦れるような音もしているようだ。これはもう、妻じゃないな。心のどこかでそう思った。更に指先を動かそうともがく。

「ひうううううううううう」

換気口から音がする。そう、これは音だ。「声」なんかじゃない。

ずずずずずず。

「ひうううううううううう」

ずずずずずず。

「ひうううううううううう」

ずずずずずず。

いよいよ真っ黒い何者かの正体が確認できてしまうかもしれない、という距離まで接近した時、急に金縛りが解け、右腕が自由になった。状態を起こして咄嗟に伸ばした右腕は蛍光灯の紐を掴み、それを引いた。

 

ぱっと室内は白い光に満たされた。真っ黒い何者かは居らず、換気口の音も消えていた。時計を見る。

140分だった。