昨日妻がこの赤いシートを見せながら、「これ、何に使うの?」と訊いて来た。自分は顎が外れそうになったが、堪えて「それ、受験用の暗記シート。赤い文字の上にそれのっけてみ。」と教えると、ちょっとしてから「ふ~ん」と納得した様子。自分は笑いが堪えきれなかった。そしてその様子を見て居た妻が一言。「絶対誰にも言うなよ。」言わない訳がないじゃないですか。こんなおもろいのに。  この赤い暗記シート。大手ゼブラは「チェック・シート」として販売している。受験生ならお馴染みだが、そうでない人には無用の長物なのだ。うちの妻は受験勉強や暗記というものには今まで無縁でこれたのだろう。それはそれで幸せだったといえるかもしれない。  かく言う自分だって、立派な受験勉強三昧でこの暗記シートを使いまくった。なんて経験はない。お付き合い程度に受験勉強をし、そこそこな大学に入った、それだけ。その後も国家試験は何度か受けたが、暗記シートを使うほど非常に困難な試験は受けてこなかったので、どうこう言える身分ではない。  受験というのは篩(ふるい)である。篩に掛けられて残ったものは勝ち組。落ちたものは負け組。その後の人生に大きな差が出る、とされる。要は努力したものが報われる社会だ。そうであってほしい。と自分も思うし、ある程度はそうなっていると思う。  官僚になって活躍している人たちなんて、血のにじむ様な努力をしてきた成果だろう。国公立大学の偉い先生や、すばらしい技術や知識を持った医者なんかもそうだろう。そして、それなりの努力しかしてこなかった人間にはそれなりの世界しかやってはこない。それはそれで真実だろうし、ある意味そうでなければならない。  だけれども、必ずしもそうではない例外も実は少なからずある。大金持ちやある種の特権階級、超弩級ラッキーな人たちである。こういう人たちはその持てる“能力”によってその地位を勝ち取ってゆける。これもまた真実であろう。そんなこんなで今の社会は出来上がってる。その中で受験の果たしている意義は決して小さくはない。  さて、その篩に掛けられる中で生きてきた自分。それなりの生活になり、それなりに生きている。不平はあるが、大した勉強もしないで生きてきたのだから、仕方がない、と思うが、ちょっとした意見はある。  篩に掛けられて来た者同士、レベルが似通った者は似通った者同士が集まってしまっているので、社会がのっぺらと表層的に粒が揃ってしまっていて面白味がないなぁ、と思うのである。  小学校から中学校まで。基本的には学力や地位などに関係なく同じ学校、学年、クラスになれ、気が合えば友達にもなれた。それが高校に入る前に篩にかけられ、大学に入る時に篩に掛けられ、同程度のこぢんまりした人間が集められてきたのではないかと思えるのである。そしてそれは社会に出て行く時も同じであった。  懐かしく思い出すのは小中学校時の友達のバリエーションの広さである。知力学力IQ関係なく、話が飛び抜けて面白い奴、法螺話しかしない奴、さっぱりクチを聞かないが怪獣の絵がめちゃくちゃ上手い奴、へらへら笑って猿のように動き回っているだけの奴、ひたすら女子のスカートめくりにのみ興味を示す奴。篩に掛けられた高校以降には出会えなかった逸材ばかりであった。期せずして、自分はそういう人たちから、篩によって引きはがされてしまっていたのではないか、と思えるのだ。  今、妻はもしかしたら生まれて初めての本格的な篩に立ち向かっているのだろう。そのための暗記シートだ。存分に使って頑張れ。と言いたいだけだったのかも知れないけれど、随分長い話になったものだ。