昨日のことである。地下鉄内で座っていると、次の駅で奇妙な男が乗って来た。170cm前後のやせぎすな20代後半、細いメタルフレームの眼鏡(100円ショップで買える老眼鏡みたいな)を掛け、上はしわくちゃの薄汚れた感じの長袖シャツ、下はカーキ色のこちらもしわくちゃのコットンパンツを穿き、私から4メートルほど離れた場所で、両手で吊り革にぶら下がるようにして体をくねくねさせ、片足をくの字に曲げてその足先を脱いだジョギングシューズの上につま先だけを乗せるようにしてくねって動き続け、全く落ち着かない様子である。
「変な奴だなぁ」と思いつつ自分は視線を外した。関わり合いになりたくないと思ったからである。しかし数瞬後、自分の前に人が立った。4の字を描くくねくね足が見える。はっとして見上げると、さっきの奇妙な男と目が合った。さっとお互い視線を逸らした。バカだと思っていたが、なんとなく目つきに鋭いものを感じた。それにしてもどうして自分の前にわざわざ来たんだよ?勘弁してくれ!とイラつきつつ改めて落ち着きのない男を足先から頭に向けて徐々に見上げていった。と、彼のズボンのチャックが開き、中のタータンチェックのパンツがちょっと見えている。
「知ったことか」と最初は思ったが、自分がそのままだったらいやだと思い、知らせることにした。
「チャック開いてますよ」最初は小声で言った。しかし彼は気づかない。もう少し声をあげて言った。
「チャック開いてますよ!」しかし彼はまだ気づかない。仕方なく普通より若干大きな声で
「君、チャックが開いてますよ!」と言った。すると彼は反応し、素早く右手でチャックを上げて
「ありがとうゴザマシタ」と軽く頭を下げた。
自分は意外なほど普通の反応に驚き、そしてなぜかおかしさを感じてぷっと少し噴き出した。何故か急速に彼への拒絶感が薄まって行くのを感じていた。隣に座っているおっさんも「わは」と笑ったように思った。
自分は「少し声が大きかったかな」とほんのちょっぴり反省しつつ、眠たかったこともあり、軽く目を閉じた。しかしすぐに車体が「ガタン」と揺れ自分は目を開けた。その時間はおそらく数秒。長くても10秒程度だったろう。
しかし、自分の前に居た筈の彼が居ない。左右車両内を探しても見つからない。まだ次の駅には停車していないのだから、降りたのではない。では別の車両に移動したのか。あり得なくはないが、自分が座っていたのは車両のちょうど真ん中位。そんな素早く移動できるものだろうか?
周囲の人たちに何らかの異変がないか確かめてみたが、皆、何事もなかったように静かである。隣のおっさんもただただ静かに眼前の空間をぼうっと無感動に見つめているだけである。数秒前には声を出して笑った人物とは思えない。
ともかく、彼は忽然と自分の前から消え去ったのである。
この時自分はふと思い出した。古来、神様が人前に現れる時は、痴れ者、異形の者、乞食などの姿で現れるという話を。
もしかしたら、彼は、神様だったのだろうか?