年賀状は大きく分けて3種類に分けられると思う。
1.全て手描きの物
宛名から通信面まで全て手描きで作られた年賀状。中には既製の年賀状ではなく、自分ですいた紙を使った年賀状もある。一部ゴム印などが使われていることがあるが、その印もおそらくオリジナルのものである。
これはもう自己主張の強い人。年賀状でかつて若い頃に持っていた芸術性を爆発させる人。あるいはテクノロジーに反発してゐる人。手描きの良さを実感してしまっている人。自分に自信のある人。
差出人と通信面に一部ゴム版を使って居るという人は性質がやや異なる。版はどうやら12年ごとの使い回しで、差出人の版も昔学校卒業時に頂いたもの等を使って居る。
これはテクノロジーに付いていけない人。手描きの良さもあると思いこんでいる人。なるべくお金をかけず手も掛けないようにしている人。できれば印刷したいが、お金がかかるので版の使い回しをしているという人が多い。
2.全て印刷だけのもの
年賀状の両面とも印刷で済ませ、手描き部分はひとつもない。
これは年賀状を出すのが義務になって居る人。なるべく楽に早く済ませようという人。金で物を解決しようという人に多い。
自分の観察では、「忙しい」とよく言う人が多い。あとジョークなど人を笑わすのが苦手な人も。真面目といえばいえるのだが、少し違う気もする。
このカテゴリには、自分の子供だけの写真を入れて来る人が多い。自分はその子供とは一切関係はないよと言いたくなる。親と一緒の写真ならわかるが、子供だけとは。どんだけ自分の子供が可愛いかは知らないがこっちはさほど可愛いとは思えない。年末にどんな絵柄がいいか夫婦で少し悩んでみるが結局見つけられず、じゃあうちの子にしようと決めてしまう。その内自分の子供の写真が年賀状になるのが常態化する。なんと安直な人種なのかと思える。
3.印刷ものに一部手描きの部分を加えたもの
これはワンポイント手書きでイラストを加えたり、メッセージを入れたりしたもの。
サービス聖心旺盛でよく人を笑わせたり元気づけることができる人。ある意味お調子者。年賀状の意義をわかっているとは思うが、一方で一言添えないと相手に悪いと思いこんでいる節がある。中には「一言添えるもの」とマナーの一種と考える人も。
ほんの少し自己満足したい人はワンポイント・イラストにチャレンジしてくる。或いは芋版などを使い、そのことの説明も入れてしまう。ここにも小さな岡本太郎が居る訳である。
以下は今までの内容とは若干異なるが、年賀状で困った実例についてふたつほど挙げてみたい。
ひとつは長年にわたって名前を間違ってくる人。
自分は姓名ともにちょっと珍しいもので、特に姓については「小山」だとか「山田」だとか「城之内」だとか、いくばくかの物語性を感じられにくい(本当はあるのだが)ためか、間違う人が少なくない。ただしその人はもう20年近い付き合いになるがずっと姓・名とも一字ずつ間違って来ていた。私も暫くというか、十数年我慢してきたのだが、3年前間違った名前のままで付き合い続けていい筈がないと思いなおし、自分の姓名を大書して間違って居る旨を賀状で伝えた。すると翌年の年賀状は、名は直って来たが、姓が間違ったままだった。ひとつしか間違い探せられんのか~い!根本的に観察力の乏しい人間なのだとがっかりした。別に名前が少し違って居てもどうということはない。自分はそう思って居たが、ここまで来れば嫌味である。そして今年も姓の違う年賀状が来た。ちなみにこの人は、長年教師を務め、数年前にリタイアした人である。
もうひとつは住所移転にまつわるもの。これも3年前の事だが、そいつ宛の年賀状が戻って来た。そいつからは年賀状が届いていたので見ると、住所が変わっている。しかし、転居通知は来て居なかった。しかたなく新住所に送りなおしたが「住所変わっていたので2度手間になったよ~ん(笑)」と一筆添えたが、それが悪かったのか、昨年はこちらは出したが先方からはついに来なかった。なんと逆ギレ?怒りたいのはこっちだぜ!と爆発したが自分がちょっと疲れただけ。そしてもちろん今年はむこうからも来ないしこちらも出さん。めでたしめでたし。そういえば、こいつ、子供が生まれたら、臆面もなく子供だけの写真載せて送ってきやがったっけなぁ。くわばらくわばら。