「一人で居ても寂しくない人間たれ」
この言葉は アジア主義者であり、玄洋社の総帥であった 頭山 満(とうやま みつる)さんの言葉です。こう書くと「ああ。右翼の頭目でアナキストね」で片づけられてしまうのがオチですが、ちょっと待って欲しい。 確かに 伊藤野枝大杉栄とも交流があったようですが、 民権運動家の 中江兆民吉野作造などとも親しかったのです。満州事変や日華事変に憤っていた頭山さんは、太平洋戦争開戦直前、 東久邇宮稔彦王に頼まれて蒋介石との和平会談に臨むべく準備していた人なのです。「右翼の頭目」というレッテルは戦後のアメリカ占領軍が付けたものを、ろくに検証もせず戦後左翼のセンセ様方が鵜呑みにして自身に都合よく解釈してきた結果なのです。  ・・・それはともかく。
 今回はそういうことを書こうとしている訳ではありません。昨年より「大東亜論」などにより小林よしのりさんが「一人で居ても寂しくない人間になれ」ということにしばしば言及していることに端を発します。しかし、その内容は若干違います。小林さんの要旨は頭山翁が為したが如く、「たとへ孤独になったとしても、自分が正しいと思ったことを突き進む勇気」のことだと思うのですが、私はそういうことを踏まえつつですが、最近の事件について結び付けて考えたのです。


 みなさんは10月23日に起こった「宇都宮自衛官爆発自殺事件(仮)」を覚えておられるでしょうか。家庭内の問題による精神的苦痛、それらに伴う生活苦などを理由に爆発自殺を図ったと考えられていますが、自分は一部同情はしつつも絶対に許せない部分もあります。それは「巻き添え」の存在です。何の関係もない人を爆発死の仲間にしようとしたことは許されることではないのです。しかも爆発現場の周辺では、複数のビー玉が発見されているということは、殺傷能力を高め、周囲へ爆発の威力を広げようとする魂胆であったことは容易に推察できます。

 

 死ぬなら死ぬとして、何故一人で静かに死ねない?


 世の中に広くアピールしたいという気持ちはあるにしても(ブログ等の書き込みには炎上などで注目されることを望んで居たフシがあります)、自分勝手な恣意行為としか言えません。昨年の東海道新幹線火災事件 と同様のただただ身勝手な犯行であります。そう詰られるのは明白な状況であります。それをなぜ行ったのでしょうか。
 私は答えの一つの中に大きな「孤独」があったように思います。誰に相談もできず、家族のない孤独に打ちひしがれた男が目指した最後の手段。それが、見ず知らずの人間との「心中」であったのではなかろうか。家族に捨てられ。社会に捨てられ。神や仏にも見捨てられたと思い込んだ男の末路がこれだったのです。最後の最後にひと花咲かせたのがこれら巻き添え自殺事件とするなら、なんと情けないことか。せめて、孤独に耐えうる人間になって居たら、少なくともこんな最期にはなるまい。孤独を知り得る人間であるからこそ、生きる知恵を会得できると思えるのです。
 ひとりはつまらない。一人は暗い。いつも誰かと繋がって居たい。などと能天気に思い続けて居る人たちこそ、今回の爆発自殺事件の予備軍となっている可能性もあると、あえて言いたいのです。たまには孤独に耐え得る訓練も時々しておこうと言いたいのですよ。