$旧聞逍遙 実は自分には顎関節症の疑いがある。十数年ほどまえから顎がぎしぎし言い始めていて、なんか噛みあわせが悪いようないずいような感じがしていた。
 そのうち歯をぐっとかみ締めた時に口が開きにくくなったり、逆に大あくびをしたときに左顎がしまりにくいような感じがしていた。
 そして10年前。事件は起きた。朝、何気なくあくびをしたら、ガキッと嵌ったような音がして左顎が戻らない。このまま締まらなければ、よだれだらだらたらしながら道を走って病院へと行きうという醜態を演じることとなる。急に焦る。顎を上からマッサージしたり、かくかくと細かい動きをしてみせたりしてもがくこと数分。この日はなんとか顎を戻すことが出来た。これではいかん、あくびは極力避けよう。と思い始めた。
 しかし、あくびとはほとんど無意識にしてしまう所作であるから、これが結構難しい。ついつい開けてしまってまた先ほどのような“半外れ”状態を続けることとなってしまい、そしてとうとう、食べ物を食べようと口を開いた時にも外れそうになるようになってきてしまった。
 これはマズイと思いつつ、それでも何とかなるさとホッタラカシていたのだが、8年前《その時》はやって来た。  うかつにも普段より大きな口であくびをしてしまった刹那、「グワッキ」と云う感じの妙な音とともに、左顎が完全大解放されてしまって、びくともしない。数十分格闘したがどうしようもない。仕方なく近所の病院へ電話する。顎が外れているから、もちろんまともな話はできない。
「ほひほひ」
「はい、いかがしました?」
「あほは、あほは はふれまひたぁ。」
「え、何ですか?もう一度お願いします。」
「あほは、はふれはんでふ。」
「いたずらですか?」
「ひはいはふ。あほは はふれ はのへふ。」
  暫く押し問答というか、漫才のような会話がなされた後、やっと先方のナースさんが内容を理解してくれた。
「顎が外れたんですね。そうですか。でもうちは内科なのでお役に立てません。お近くの歯医者さんに問い合わせてみてくださいね。」
「ほうへふは。ははりはひは。」
 そうして、近所のショッピングモール内にある歯医者さんへと駆けつけた。駆けつけ方はなりふり構わずスタイルで、マスクも何もせず、ただ両手で下あごを押さえて必死に走ったのである。もう外れてから45分は経過していたと思う。
 歯医者さんに到着し、症状を説明してやっとやや落ち着いた。ナースさんたちが壁を向いて体を震わせているのが少し気になったが、この際大した問題ではない。

 その後、レントゲン写真を撮ったが、この時鏡で自分の顔を見た。口を半開きにしただらしのない男の顔である。そこには不安と焦りの色も混じり合う、とても情けない表情をしていた。十分後レントゲン写真を見せられ左顎の外れを確認。早速医師の施術となった。医師の左手が口の中へ入れられ、右手は左顎を押える格好だ。ぐっと力が入れられ数秒後「ぐりっ」といった音とともに顎が入った。
$旧聞逍遙 「どうも、顎関節症の疑いがありますね。暫く通院するといいんですがねぇ。」
 医師は伝え、自分は「はぁ」とあいまいな返事をする。顎関節症治療は実は、まだ確立されておらず、その中でも有効とされているマウスピースを入れる療法は保険適用外で、最低ん十万はかかるということをネット情報などで知っていたからである。
 そのため、またそのままほったらかし療法を続けていたのであるが、その間確実に症状は悪化して行った。
 普段からなんとなく顎の納まりが悪く、ガクガクいうようになる。また、それが嫌だから自分で常に顎を動かしているようになり、これが癖となってしまう。その内、ちょっとしたことで顎が外れそうな感じになるようになり、更には、スルメなど硬く長い間咀嚼しないと飲み込めないようなものを食べている内に顎が開きにくくもなって来た。
 ある時など、力仕事をしていて思い切り歯を食いしばったあと、口を開こうとしたら、これが開かない。無理に開こうとしたら「キシャー」というような妙な音がした。痛みはあまり感じなかったが、言いようのない不安が頭を過った。
 それからというもの、口を大きく開かない、強く噛まない、ということを日々心がけなければならなくなってしまった。普段ちょっとしたことでも外れそうな感じがするので、その都度非常に焦るし、慌ててしまう。よく漫画で頭の上に太陽の放射のような線が描かれて擬音は《ガ~~ン》となる。あの感じがそのまま実感として出る感じだ。
 そしてある時、ラーメンを食べ終え、スープを啜ろうと、ほんの少し口を開いた時、『ガッチリ』という感じで左顎が外れ、もとに戻らなくなった。思い出すのはあの病院へ行った時の感覚。問題は深刻だ。時間は夜8時。病院はやっていない時間帯。幸い近所に歯医者の親戚の友人がおり、しかも歯医者の隣に住んでいたので、拝むような思いで電話した。しかし、その友人の反応は芳しくなかった。いろいろとよだれを垂らしながらお願いした(この時は前回の時の教訓で、発音は大分向上しており、ほとんどの内容を誤解なく伝達させることが出来ていた。)が、話をはぐらかすような受け答えで要領を得ず、最後にはしきりに救急病院行きを勧める。それでもなお説得を続けたが、彼は「こんな話してると時間が無駄になるよ。早く救急病院へ行ったら?」と切り出した。自分は絶望とともに怒りが込み上げてきた。彼は一緒の仕事をしているときは、困った人を助けるよい人と思われていたが、それは自分に余裕がある時だけのことで、本当に困っている人は助けない人なのだ、と悟ってしまった。
 しかし、このまま終わらないのがやぶにらみ人間の自分。なぜ隣に声掛けくらいもしてくれないのか、執拗に訊き続けた。そして得た情報が親戚同士の不仲だった。隣同士いがみあっているということが分かったのだ。彼は歯科医の娘の婿養子として来たが、招かれざる客ということだったのだろう。自分は内心にやりと意地悪な笑みを浮かべながら、「ありがとう」と皮肉を言って電話を切った。
 すると、その瞬間、奇跡的に顎が戻った。もしかしたら長い間話をしたのがよかったのかも知れない。自分は胸を撫で下ろしつつ、友人だと長年思っていた男の名前を心のアドレス帳から削除した。
$旧聞逍遙 そして、このままぢゃあいけないと本気で思い始めた。そして顎周辺の筋肉を整えるためマッサージをはじめ、歯磨きも以前より丁寧に行うようにした。
 実は、根拠はないのだが、歯磨きで改善する確信があった。顎の調子が悪くなってから、歯磨きの時にブラシが触れるとなんとなくいずい、というか、気持ちが悪い、というような部分があるのを意識していた。きっとそのあたりを丁寧にブラッシングしたらよくなるのではないだろうか、という考えだった。
 それから、歯磨きに要する時間は二倍以上になった。そして、2週間ほど経った頃、あの“いずい”感じがなくなり、一番奥の奥歯の裏側がつるつるして来たことが分かった。そして、徐々に口の開く角度が大きくなり、ここ数年は思わぬ大あくびでも外れないようになった。
 今でも顎はがくがくいうし、スルメを噛んでいると顎が疲れやすいし、閉じにくくなる前兆を感じるので、まだまだ要注意ではあるが、症状は間違いなく改善したのである。
 もし顎が外れやすくて困っている人がこれを読んでいたら、自分はこう言いたい。兎にも角にも奥歯の奥を丁寧に歯磨きしましょう。そうすると、少しずつ、症状はよくなりますよ、と。

$旧聞逍遙