20年ほど前、加藤と名乗る初老の紳士とバーで知り合いになった時に、こんな話を聞いた。
加藤さんは昭和30年代、朝の通勤電車のホームで一人の女性を見初めた。いつも同じ電車に乗っていたが、隙のないスーツを着こなした利発そうな同年代の女性に声も掛けられず、いつも五~六歩離れた所から眺めて居るだけだったという。
ある日、友人に誘われて行った展覧会に加藤さんはその女性に良く似た絵画を見つける。いや、厳密にいうと、全体的にはさほど似ておらず、むしろ毎朝見かける女性の方が余程美人だと感じたそうだが、どきりとしたのはその目付き。どこかを見ているようで、どこも見ていない。全て諦めているような、観念したような、あるいは何かを空想しているような、でも何かを掴んでいるような、この目付きが、似ていると思った。そして、何となく危険な香りを嗅いだ気もした。だから妙にどきどきしたんだ。と加藤さんは語った。
それから数日後。いつものようにホームに女性を見つけた加藤さんは、また数歩離れて瞳の右隅にちらつく女性の姿を追っていた。すると、彼女、いつもは行かない最前列に並んでしまった。おかしいなと思いつつ自分も前の方に移動を始めた。その時、女性はかつかつかつ、とヒールの音をリズミカルに三つ響かせ、四拍目でプラットフォームの角に足の裏を掛けるようにすると、そこを軸に弧を描くようにして線路の方へ落ちて行く。その様子をスローモーションを見るように見詰めていたという。そして、女性が線路に落ちる前に特急電車が通過し、彼女の頭を粉砕するのが見えた、という。
数秒の沈黙の後、ホーム上は大騒ぎになった。右往左往する乗客や駅員の中、加藤さんは呆然と立ちすくんでいた。そして、ふと足元を見ると、ほんのりと桃色を帯びた白色の、子供のこぶし大の物体が落ちているのを発見した。
その時一瞬にして浮かんだのは、“ああ、汚れてしまう。腐ってしまう。早くしなければ!”という感情だったそうだ。そして、加藤さんは周囲を見回し、誰も気付いていないことを確認すると、それを手に取り、口に入れてしまったというのだ。今でも理由はわからない。とにかく、こうするしかないと、この時は思ったのだそうだ。
話を聞き終え、二人は黙ってグラスを傾け続けた。私の心に葛藤が芽生えていた。私は暫くそれに絶え続けながら、ウイスキーと共にそれを流し込んでいた。が、やはり、私は訊かずには居られなかった。その、桃色を帯びた白色のものの味を。
私は禁断の言葉を口にした。
「で、どうだったんですか。・・その、・・・味は?」
しかし加藤さんは、首を振り、それはね、語ってはいけないんです。墓まで持って行く話なんです。とやんわり返答したが、その素振りには、こんなに簡単には教えられない、という拒絶する雰囲気が醸し出されていた。