
想像力をくすぐるアイヌの民話に触れ、清清しい気分になった。
しかしそれだけではない。より高い便利な文明社会を築きあげようとするわれわれ現代人への警告や示唆にも富んでいるのだ。
その一端を紹介したい。
小オキキリムイが自ら歌った謡
「クツニサ クトンクトン」
クツニサ クトンクトン
ある日に水源の方へ遊びに
出かけたら,水源に一人の小男が
胡桃[くるみ]の木の簗[やな]をたてるため杭を打つのに
腰を曲げ曲げしている.
私を見ると,いう事には,
「誰だ? 私の甥よ,私に手伝ってお呉れ.」
という.見ると,胡桃の簗
なものだから,胡桃の水,濁った水
が流れて来て鮭どもが
上って来ると胡桃の水が嫌なので
泣きながら帰ってゆく.私は腹が立ったので
小男の持っている杭を打つ槌を
引ったくり小男の腰の央を
私がたたく音がポンと響いた.小男の
腰の央を折ってしまって殺してしまい
地獄へ踏み落してやった.彼の胡桃の杭を
揺り動かして見ると六つの地獄の
彼方まで届いている様だ.
それから,私は腰のカ,からだ中のカを
出して,その杭を根本から
折ってしまい,地獄へ踏み落してしまった.
水源から清い風,清い水が
流れて来て,泣きながら帰って行った.
鮭どもは清い風,清い水に
気を恢復して,大さわぎ大笑いして遊ぴ
ながら,パチャパチャと
上って来た.私はそれを見て,安心をし
流れに沿うて帰って来た.と
小さいオキキリムイが物語った.
[注]六つの地獄.地の下には6段の世界があって,そこには種々な悪魔が住んでいます.
知里幸恵のアイヌ神謡集では、アイヌ民話における神のことを「オキキリムイ(okikirmui)」と表記され、サマユンクルとシュプンランカといとこ同士であるという。サマユンクルは「短気で、知恵が浅く、あわて者で根性が悪い弱虫」、オキキリムイは「神の様に知恵があり、情け深く、勇気があるえらい人」で、「その物語は無限というほど沢山」あるという。
しかし、地方によってはオキクルミとサマユンクル(サマイクル等とも表記される)が兄弟であったり、またサマユンクルの方が英雄神であったりといった様々なパターンがある。おおむね、道央道南ではオキクルミが、道東道北ではサマイクルが尊ばれるというが、その区分も厳密なものではない。
伝承者によっては、人間の英雄とされるポンヤウンペ(ポイヤウンペ等とも表記される)と同一視されたり、兄弟とされる場合もある。 [この部分Wikipedia より]
“鮭どもは清い風,清い水に
気を恢復して,大さわぎ大笑いして遊ぴ
ながら,パチャパチャと
上って来た.”
という部分。自分は鮭が光り輝く飛沫の中を勢いよく跳ね登ってくる姿を想像して、思わずにんまりしてしまった。
ここで胡桃は毒のようなものを放つものとして描かれている。胡桃は栗とともに、われわれの祖先:縄文人もよく食していたものなのに、どうしてだろうと思ったが、多分、皮に毒があるため、このように描かれたのだと、勝手に自分は解釈している。
最後に知里幸恵自身が大正11(1922)年に記した序文を掲載しておこう。[彼女はこの年の9月18日に亡くなっている]
其の昔此の廣い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天眞爛漫な稚兒の樣に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと樂しく生活してゐた彼等は、眞に自然の寵兒、何と云ふ幸福な人だちであつたでせう。
冬の陸には林野をおほふ深雪を蹴つて、天地を凍らす寒氣を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には凉風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の樣な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟かな陽の光を浴びて、永久に囀(さえ)づる小鳥と共に歌ひ暮して蕗(ふき)とり蓬(よもぎ)摘み、紅葉の秋は野分に穗揃ふすゝきをわけて、宵まで鮭とる篝(かがり)も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、圓(まど)かな月に夢を結ぶ。嗚呼何といふ樂しい生活でせう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、此の地は急速な變轉(変転)をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。
太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて野邊に山邊に嬉々として暮してゐた多くの民の行方も又何處。僅かに殘る私たち同族は、進みゆく世のさまにたゞ驚きの眼をみはるばかり。而も其の眼からは一擧一動宗教的感念に支配されてゐた昔の人の美しい魂の輝きは失はれて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おゝ亡びゆくもの‥‥‥それは今の私たちの名、何といふ悲しい名前を私たちは持つてゐるのでせう。
其の昔、幸福な私たちの先祖は、自分の此の郷土が末にかうした慘めなありさまに變らうなどとは、露ほども想像し得なかつたのでありませう。
時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競爭場裡に敗殘の醜をさらしてゐる今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て來たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては來ませう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮(あけくれ)祈つてゐる事で御座います。
けれど‥‥‥愛する私たちの先祖が起伏す日頃互に意を通ずる爲に用ひた多くの言語、言ひ古し、殘し傳へた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまふのでせうか。おゝそれはあまりにいたましい名殘惜しい事で御座います。
アイヌに生れアイヌ語の中に生ひたつた私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集ふて私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。
私たちを知つて下さる多くの方に讀んでいたゞく事が出來ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。
大正十一年三月一日
アイヌが高い文化を持っていたのにも係わらず、文字を持たなかった理由ははっきりしていないが、自分は「言葉を残すと命がなくなる」と信じられていたのではないか、と思っている。この説でいうと、アイヌ民話を広く知らしめることとなった『アイヌ神謡集』を書き上げた知里幸恵の19歳という早すぎる死は、その観念を具現化したということになってしまう。なんという皮肉であろう。