私には天敵といえる国語教師が二人いた。一人は中一の時、もう一人は高一の時に出遭ってしまった。これはその思い出語りである。
「私なんかは、辞書を読んでいるだけでも面白かった。」
中学1年の新学期。国語教師が自らの中学時代を振り返り、最初の授業で言い放った言葉だ。
「だめだこりゃ。」
と私は思い、こんな奴の言う事は信用しない。そう決意してもいた。
国語を学ぶことは“ものがたり”を学ぶことであり、文法や単語の意味を学ぶことは、“物語”を紐解くための一つの手段に過ぎない。
単語を学ぶことが、国語を学ぶことには決してならない。
そう直感的に感じていたからである。
この教師と付き合っていかなければならなくなった中学生活。少しユニークだった私の感受性を、他の標準的な生徒達と共に馬鹿にし笑い飛ばすなどし、私にとってトラウマとなりかねない時期を過ごした訳だが、1年という短い期間で終わったことが私にとって幸いだったのかも知れない。
高1のある日、現代国語の教師はわれわれ生徒に普段考えていることを、どんなことでもいいと言って書かせた。
私は当時の社会情勢を絡め、普段からの不平不満を書き殴った。何故かそれを教師が気に入り、クラス全員に読み聞かせた。
学校をやりすごす場と考えていた私にとっては非常に迷惑なことだったが、この教師は更なるおせっかいを進める。
私が太宰治を読んでいると知り、教壇に上がって発表せよ、と言う。
そもそも私にとって学校(ゲットー)と云う場はやりすごす場所でしかなかった。自分自身の断片ひとかけをも、ここでは出さぬと決めていた。
しかし、そうはいかなくなってしまった。しぶしぶ登壇し我が太宰論を説くこととなってしまった自分は投げやりに、そそくさと発表の場を終え、底辺の日常へ再埋没しにかかったが、教師はそれをさせなかった。
週末、太宰治の読書会があるから来い。と云い、
行ったら、感想文を書け。と云い、
提出すると、文科系サークルの機関紙に載せる。という。
私にとっては泥沼の状況だった。
そもそも与えられたテーマに興が乗れば、面白いものが書けるだろうが、そうでなければ、他の優等生に書かせたほうがよいものとなるだろう。
その程度のことは自身が心得ていたのだ。
その上、日頃自分より劣等と思っている者が思ったより上質な姿を見せたことへの嫉妬心の暴発をも見せつけられることとなった。
その中には、私がいくら努力しても追いつけるべくもない、優等生であるクラス代表の姿もあった。
しょせん、ゲットー(学校)はこういった程度のものだ。こういった程度のものだから、私はやりすごす場としているのだ。私の考えは裏付けられる形となった。
しかし、そんなことには係わりなく、現国教師は読書会へ参加させ、感想を書かせた。
何度目だったか、川端康成の会の時、書いた原稿が大幅に添削された上で、機関紙に掲載された。
それについて問うと、教師は あれのほうがよいだろう。 と言う。
私は潮時を感じ、読書会へ参加せず、感想も書かず、劣等生としての日常へと回帰した。
教師は何度か声をかけて来たが、私は耳を貸さなかった。
以来、現国教師は私への対応を冷遇へと転じた。私もそれを機に、興が湧くものしか書かないという自分なりのスタイルを貫いた。
夏休みの課題、三島由紀夫『金閣寺』の読書感想文は書かず、『私のスタインベック論』を提出したり、決して課題をそのまま素直に提出することはなかった。
(今となっては、当時から三島由紀夫は好きな作家であったのに、わざわざ、大して好きでもなかったスタインベックにしなくてもよかったのではないか、と思えるが、変な反骨心が出たのだろう。)
現国教師は私の見る限りは平静を装っていたが、影ではやはり私を面白く思っていなかったようだ。
彼は仲の良かった化学教師に話したのだろう。ある日この化学教師から一方的な説教を受け、その後徹底的な無視を受けた。
何故関係ない人物からあれこれ言われなければならないのか、理不尽な思いをしたが、これこそゲットー と斜に構える自分が居た。
広辞苑 第六版 DVD-ROM版/新村 出

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)/太宰 治

津軽 (新潮文庫)/太宰 治

眠れる美女 (新潮文庫)/川端 康成

山の音 (新潮文庫)/川端 康成

人間失格 1 (BUNCH COMICS)/古屋 兎丸

回想太宰治 (1980年)/野原 一夫

金閣寺 (新潮文庫)/三島 由紀夫

不道徳教育講座 (角川文庫)/三島 由紀夫

ハツカネズミと人間 (新潮文庫)/ジョン スタインベック

チャーリーとの旅/ジョン スタインベック

エデンの東 新訳版 (1) (ハヤカワepi文庫)/ジョン・スタインベック

「私なんかは、辞書を読んでいるだけでも面白かった。」
中学1年の新学期。国語教師が自らの中学時代を振り返り、最初の授業で言い放った言葉だ。
「だめだこりゃ。」
と私は思い、こんな奴の言う事は信用しない。そう決意してもいた。
国語を学ぶことは“ものがたり”を学ぶことであり、文法や単語の意味を学ぶことは、“物語”を紐解くための一つの手段に過ぎない。
単語を学ぶことが、国語を学ぶことには決してならない。
そう直感的に感じていたからである。
この教師と付き合っていかなければならなくなった中学生活。少しユニークだった私の感受性を、他の標準的な生徒達と共に馬鹿にし笑い飛ばすなどし、私にとってトラウマとなりかねない時期を過ごした訳だが、1年という短い期間で終わったことが私にとって幸いだったのかも知れない。
高1のある日、現代国語の教師はわれわれ生徒に普段考えていることを、どんなことでもいいと言って書かせた。
私は当時の社会情勢を絡め、普段からの不平不満を書き殴った。何故かそれを教師が気に入り、クラス全員に読み聞かせた。
学校をやりすごす場と考えていた私にとっては非常に迷惑なことだったが、この教師は更なるおせっかいを進める。
私が太宰治を読んでいると知り、教壇に上がって発表せよ、と言う。
そもそも私にとって学校(ゲットー)と云う場はやりすごす場所でしかなかった。自分自身の断片ひとかけをも、ここでは出さぬと決めていた。
しかし、そうはいかなくなってしまった。しぶしぶ登壇し我が太宰論を説くこととなってしまった自分は投げやりに、そそくさと発表の場を終え、底辺の日常へ再埋没しにかかったが、教師はそれをさせなかった。
週末、太宰治の読書会があるから来い。と云い、
行ったら、感想文を書け。と云い、
提出すると、文科系サークルの機関紙に載せる。という。
私にとっては泥沼の状況だった。
そもそも与えられたテーマに興が乗れば、面白いものが書けるだろうが、そうでなければ、他の優等生に書かせたほうがよいものとなるだろう。
その程度のことは自身が心得ていたのだ。
その上、日頃自分より劣等と思っている者が思ったより上質な姿を見せたことへの嫉妬心の暴発をも見せつけられることとなった。
その中には、私がいくら努力しても追いつけるべくもない、優等生であるクラス代表の姿もあった。
しょせん、ゲットー(学校)はこういった程度のものだ。こういった程度のものだから、私はやりすごす場としているのだ。私の考えは裏付けられる形となった。
しかし、そんなことには係わりなく、現国教師は読書会へ参加させ、感想を書かせた。
何度目だったか、川端康成の会の時、書いた原稿が大幅に添削された上で、機関紙に掲載された。
それについて問うと、教師は あれのほうがよいだろう。 と言う。
私は潮時を感じ、読書会へ参加せず、感想も書かず、劣等生としての日常へと回帰した。
教師は何度か声をかけて来たが、私は耳を貸さなかった。
以来、現国教師は私への対応を冷遇へと転じた。私もそれを機に、興が湧くものしか書かないという自分なりのスタイルを貫いた。
夏休みの課題、三島由紀夫『金閣寺』の読書感想文は書かず、『私のスタインベック論』を提出したり、決して課題をそのまま素直に提出することはなかった。
(今となっては、当時から三島由紀夫は好きな作家であったのに、わざわざ、大して好きでもなかったスタインベックにしなくてもよかったのではないか、と思えるが、変な反骨心が出たのだろう。)
現国教師は私の見る限りは平静を装っていたが、影ではやはり私を面白く思っていなかったようだ。
彼は仲の良かった化学教師に話したのだろう。ある日この化学教師から一方的な説教を受け、その後徹底的な無視を受けた。
何故関係ない人物からあれこれ言われなければならないのか、理不尽な思いをしたが、これこそゲットー と斜に構える自分が居た。

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)/太宰 治

津軽 (新潮文庫)/太宰 治

眠れる美女 (新潮文庫)/川端 康成

山の音 (新潮文庫)/川端 康成

人間失格 1 (BUNCH COMICS)/古屋 兎丸

回想太宰治 (1980年)/野原 一夫

金閣寺 (新潮文庫)/三島 由紀夫

不道徳教育講座 (角川文庫)/三島 由紀夫

ハツカネズミと人間 (新潮文庫)/ジョン スタインベック

チャーリーとの旅/ジョン スタインベック

エデンの東 新訳版 (1) (ハヤカワepi文庫)/ジョン・スタインベック
