いつもの散歩道の途中に70歳を過ぎた位の老夫婦が住む家がある。平屋の小さな家だが、いつもきれいに掃除や除雪がされており、夏場には小さな花壇にいつも彩りの良い花を咲かせている。そこに住んでいるご夫婦はお二人とも穏やかな微笑をいつも湛えている感じで、どことなく品の良さを感じさせるものがある。
そんなご夫妻の家からピアノの音が聞こえてくることが稀にある。数ヶ月前はモーツアルトやシューベルトの「ピアノ・ソナタ」などが聞こえていたが、今日はショパンの「幻想即興曲」が流れている。以前はオーディオが鳴らされて居るのだろうと思い込んでいたが、今日はそうは思えない。どう考えても生のピアノの響きなのだ。しかも、「昔習ってました。」というような程度のレベルではない。しっかりとした自分自身の解釈があり、また、それを実際にプレイできる確かなテクニックを持っている人が演奏しているということがひしひしと伝わってくるのだ。
普段私は他人の家の中を覗くというような趣味は持ち合わせて居ないのだが、今回はちょっと事情が違った。レースのカーテンのほんのちょっとの隙間から一瞬、中を盗み見ることにした。部屋の中は向こう側の窓からの逆光ですべてが黒いシルエットとなっていたが、奥の間にピアノらしき物があり、その付近に3つの人影が微かに動いて居ることはわかった。
私は暫くそこで聞いていたかったが、自分の様な見ず知らずの男がその家の窓辺に佇んで聞き入っているという構図は余りに怪しく、ご近所様に通報されかねない為、私はしぶしぶ歩き出した、それでもピアノの旋律がより長く聴いていられるよう、初めて歩いた赤ん坊のように、のろのろ、ゆらゆら、と歩いた。そして、いつもの空想が始まる。
演奏旅行を続けているピアノストの長女が地元でのコンサートの合間を縫って突然、実家へ顔を出した。両親は驚き呆れながらも娘を暖かく迎えた。紅茶が入れられ、ビスケットを摘みながら、みやげ話などを聞いている内に、ついつい、娘の子供時代の思い出話になってしまい、両親は未熟だった頃の娘の腕前のことをおもしろおかしく語り出す。娘はそれを気恥ずかしげに聞き流しながら、その頃の練習曲をピアノで弾き始める。
あの頃は本当に下手だった。でも今は………
と云って弾き出したのが、ショパンの「幻想即興曲」。
娘の弾きこなすメロディーと、いやそれよりも自信に満ち溢れ、洗練された我が娘の姿に両親は誇りを感じつつ、少なからぬ感動をも覚えて何時の間にか、曲へ聴き入り、娘も演奏へと没頭してしまい、紅茶は手が付けられぬままに冷めてゆく。
などとあれこれ思いを巡らしている内に、ピアノの音も聞こえなくなり、我が家も近づいた。今度は思い切って老夫婦と話をしてみようか。それともこのまま空想を愉しんでいようか。と、些細な事を迷い始めた自分は如何ともしがたい存在だ。
モーツァルト:ピアノ・ソナタ集第6番~第9番/ギーゼキング(ワルター)

シューベルト:ピアノ・ソナタ第16番/ポリーニ(マウリツィオ)

別れの曲(ショパン:ピアノ名曲集)/ブーニン(スタニスラフ)

そんなご夫妻の家からピアノの音が聞こえてくることが稀にある。数ヶ月前はモーツアルトやシューベルトの「ピアノ・ソナタ」などが聞こえていたが、今日はショパンの「幻想即興曲」が流れている。以前はオーディオが鳴らされて居るのだろうと思い込んでいたが、今日はそうは思えない。どう考えても生のピアノの響きなのだ。しかも、「昔習ってました。」というような程度のレベルではない。しっかりとした自分自身の解釈があり、また、それを実際にプレイできる確かなテクニックを持っている人が演奏しているということがひしひしと伝わってくるのだ。
普段私は他人の家の中を覗くというような趣味は持ち合わせて居ないのだが、今回はちょっと事情が違った。レースのカーテンのほんのちょっとの隙間から一瞬、中を盗み見ることにした。部屋の中は向こう側の窓からの逆光ですべてが黒いシルエットとなっていたが、奥の間にピアノらしき物があり、その付近に3つの人影が微かに動いて居ることはわかった。
私は暫くそこで聞いていたかったが、自分の様な見ず知らずの男がその家の窓辺に佇んで聞き入っているという構図は余りに怪しく、ご近所様に通報されかねない為、私はしぶしぶ歩き出した、それでもピアノの旋律がより長く聴いていられるよう、初めて歩いた赤ん坊のように、のろのろ、ゆらゆら、と歩いた。そして、いつもの空想が始まる。
演奏旅行を続けているピアノストの長女が地元でのコンサートの合間を縫って突然、実家へ顔を出した。両親は驚き呆れながらも娘を暖かく迎えた。紅茶が入れられ、ビスケットを摘みながら、みやげ話などを聞いている内に、ついつい、娘の子供時代の思い出話になってしまい、両親は未熟だった頃の娘の腕前のことをおもしろおかしく語り出す。娘はそれを気恥ずかしげに聞き流しながら、その頃の練習曲をピアノで弾き始める。
あの頃は本当に下手だった。でも今は………
と云って弾き出したのが、ショパンの「幻想即興曲」。
娘の弾きこなすメロディーと、いやそれよりも自信に満ち溢れ、洗練された我が娘の姿に両親は誇りを感じつつ、少なからぬ感動をも覚えて何時の間にか、曲へ聴き入り、娘も演奏へと没頭してしまい、紅茶は手が付けられぬままに冷めてゆく。
などとあれこれ思いを巡らしている内に、ピアノの音も聞こえなくなり、我が家も近づいた。今度は思い切って老夫婦と話をしてみようか。それともこのまま空想を愉しんでいようか。と、些細な事を迷い始めた自分は如何ともしがたい存在だ。

シューベルト:ピアノ・ソナタ第16番/ポリーニ(マウリツィオ)

別れの曲(ショパン:ピアノ名曲集)/ブーニン(スタニスラフ)
