
都心掘ればご先祖さま
建設現場に人骨 相次ぐ
江戸期は墓地
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寺移転で放置
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掘削法変わり
東京都心のマンションやビルの工事現場から、かめや木おけに入った江戸時代の人骨がひょっこり見つかる例が相次いでいる。江戸の街では、遺体を葬った墓地をそのままにして寺院が移転してしまうことが頻繁にあったが、近年の建設ラッシュで、その跡地が深く掘り返されることもあるためだ。うち捨てられていた骨が長い年月を経て、江戸を知る資料として日の目を見ている。(宮本茂頼)
1月中旬、墨田区のJR錦糸町駅のほど近く。マンション建設のため更地にした地面を掘り返していた際に、人骨が入った高さ70センチほどの常滑焼のかめが見つかった。通報を受けた本所署によると、地中2、3メートルのところにあり、ほかにもいくつかあったという。
古地図で見ると寺があった場所。鑑定で事件の時効がとっくに過ぎている古い骨だと確かめた後、文化財を調査する同区教委にゆだねられた。
06年にも同区吾妻橋のマンション建設現場で、人骨の入ったかめや木おけ約300個が見つかった。江戸後期の骨が大半で、墓地があったとみられる「成就寺」は明治以降に移転していた。
浅草など寺社町が多かった台東区では07年、ビルの工事現場で約30体分が掘り出された。港区でも05年、新築住宅の基礎工事中に40体分程度が見つかった。各区から報告を受ける都教委は「統計はないが、年1、2回は決まってある」という。
遺骨執着せず
江戸時代は土葬が主流で、遺体を一人ずつかめやおけに納めて埋めることが多かった。かめは武士や富裕な町人、おけは庶民用とみられる。
江戸文化に詳しい都市史研究家の鈴木理生さんによると、徳川家康の江戸入城や明暦の大火(1657年)などを機に江戸は都市整備が進んだ。街の拡大に伴い、幕府の命で寺院は引っ越しをさせられたが、その際、ほとんどの墓地が放置されたという。
人々の遺骨への執着も薄かった。「大量に人が流れ込み、そして死んでいく。子孫も続かないことが多く、いちいち構っていられない。それが都市の合理性」と鈴木さん。墓は死者をまつるよりも「死体処理施設」の機能が強く、発掘された墓地跡からは、古い墓上に新たに墓が作られた例も確認されている。
ではなぜ、200~300年もたった今、発見例が相次ぐのか。
複数の自治体の文化財担当者は、近年は基礎工事の段階で昔よりも深く広範囲の地面を掘り返す工法に変わつたため、墓地跡が見つかりやすくなったと指摘する。マンションなどの建設ブームは続いており、今後も増える可能性はあるという。
鈴木さんは「高度成長期の建築ラッシュ時などにも、けっこう見つかっていたはず。でも『縁起が悪い』と、施工主らが表に出さないことが多かったのではないか。自治体の調査態勢も整ってなかった」と推測する。
生活知る資料
最近は「江戸遺跡」への関心が高まり、保存状態のよい骨は当時の人々の健康状態や食生活を知るうえでも注目される。調査担当者の悩みは、工期遅れや風評を気にして建設業者らが協力したがらないこと。寺があった場所は事前の試掘を頼むなどの調整も、試みられているという。
明治になると墓地や埋葬の取り扱いは法的に整備され、土葬から火葬中心に変わって骨の持ち運びも容易になった。1948年には現在の墓地埋葬法が定められ、墓地移転の際には、遺体を移す「改葬」をしなければならないとされている。
いやあ、東京は人骨ラッシュだったんですなあ。しかも江戸時代の人骨。ロマンですなぁ。
実は今年に入って、記事にも出てきている鈴木理生氏の『江戸町は骨だらけ』を購入し、読み終えたばかりで、この記事というあまりのタイミングの良さにビックリ。江戸の骨が自分を呼んでいる?
そして、この本を知るきっかけとなったのが日本初怪談専門誌『幽 Vol.002』。これに「鈴木理生インタビュー」が掲載されていたのだ。ここに同書が単なる研究書ではないことも紹介されている。
その部分を引用してみよう。
『フィールドワークと、古文献や古地図の丹念な博捜から得られた実証的データが一丸となって、意外性に満ちた洞察が展開され、往時の都市と都市生活者のいとなみが活きいきと眼前に立ちのぼつてくる……、鈴木氏の著書に接する悦びと醍醐味は、ここに尽きるといえよう。
しかしながら、それだけのことならば、優れた史家や考古家の著作には間々あることかも知れない。鈴木氏の著作が、怪談研究の観点から注目に値する真の理由は、実はその先にあるのだった。『江戸町は骨だらけ』には以下のようなくだりが見える。
当時の下町の工事現場の片隅に、目立たないように香華が供えられているのを日常的に見てきたが、工事の施主としては人骨に対する精一杯の哀悼の志だった。公に人骨の存在を明らかにはできず、従って正式にマツルこともできず、そのまま約三十年経った現在、当時のビルのオーナーの多くは姿を消したが、その遺志として地所の下の骨の供養を気にしている遺族=子孫の例が多い。
人骨の存在を知りつつ、しかるべき処置もしないで済ませてはみたが、歳月の経過と共に色々と思い当たることが続出する。それを具体的に定量的に説明することは困難なのだが、とにもかくにも現代人の知識や理性の範囲外に、「アルモノ」が存在することも、また一つの事実なのである。
「そんなバカなことがあるか」と威勢がよかっだ者も、「知らぬが仏」で入り込んだ者も、結局は思い知らされる結果になっているのも興昧あることである。』
いかがであろうか?これは紛れもなく、ちくま学芸文庫から発行されている書物の一節なのだ。
最後に、これも、大変気になる内容だ。

「たぶん、霊感のあるほうなんですよ」たまたま茶菓を取り替えにいらした奥様が、横から言葉を添えられた。「いつだったかも展覧会場で、ある絵の前で立ちすくんじゃったことがあって。私は横で見ていて、全然分からなかったんですけど……」ウンウンとうなずく鈴木氏。
その絵とは、近代日本画の巨匠.横山大観が、太平洋戦争末期の昭和十九年に描いた『南溟の夜』だった。アルバムに収められた絵の複写を示しながら、鈴木氏が語る。
「ひとめ見た瞬間、妖気せまるというか、ゾクッときました。すごく怖い絵なんだ。ハッと気づくと、この絵の近くだけ、人がいないんですよ。これはねえ、神風特攻隊の残念無念がこもった絵なんです。画面上部に煌めいているのは、南溟に散つた人魂ですよ。それを大観は、日本が負ける前に描いてるんだ、すごいよね。その点でも、この絵は怪談--誰も言わないっていうことの怪しさですよ。ここにどれくらい、無言の怨念がこもっているか……いっぱいありますよ、そういう話は」
[横山大観「南溟の夜」の画像はネットにも画集にもなし。余り画質の良くない画像しか掲載できぬこと、お許しあれ。]
