
当時このカーンを聞いて異常にアセッタことを覚えている。このアルバムを発表したヒレッジらの年齢に自分が近づいているにもかかわらず、自分は全てにつけスタ-トすら切っていなかったからである。別にミュージシャンを目指していた訳でもなかったが、それでもこの早熟な音楽家達に嫉妬し、憧憬の念を燃やしてしまっていた訳なのだ。
スティーヴ・ヒレッジのディレイを駆使したスペイシーなギター・サウンドは、GONGの『You』はもとより特に『L』以降のソロ作、そして近年のSystem 7などでよく知られているところだが、そのテクは今作で既に確立されており、それだけでも驚嘆に値するといえよう。その上にディヴ・スチュアートのキーボード・ワークが絡む。ニック・グリーンウッドのベースラインとヴォーカルだって悪くない。これぞまさにプログレの隠れた名作だ!(良い年をして少し興奮シテシマウ)
'91年CD化された時に、スティーヴ・ヒレッジ自身による解説が掲載された。ここで「カーンがヒレッジの最高傑作」と言われることに対する苦悩(?)を書いている。その一部を転載してみたい。
『 1968年の秋、僕はカンタベリーの大学へ入学した。その当時は、カンタベリーが、僕のフェイヴァリット・グループであるキャラヴァンやソフト・マシーンのホーム・ベースであるなどとは知らなかった。しかし、すぐにいろいろなミュージシャンに出会うようになり、ついにはキャラヴァン、ソフト・マシーンのメンバー本人達と友達になったのだ!
これら多彩なミュージシャン達とのコンタクトを通して、エッグは、後に"カンタベリー・シーン"として世に知れわたるようになったものの中へ統合されるようになる。僕がカンタベリーにいる間、同じ大学の仲間だったバーバラ・ガスキンと行動を共にしていた。彼女もまた、何年か後にはデイヴ・スチュワートと非常に強いパートナーシップを持つようになるのだが。このとき彼女は、スパイロジャイラという自分のバンドで活動していた。
こういった自分の周囲の友人達の音楽活動を見るにつけ、大学入学後、6ヵ月もたたないうちに、自分がプロ・ミュージシャンヘの道を選ばなかったことを後悔するようになったことには、別段驚きはなかった。僕は大学のコースの最初を終えると大学を去る決心をし、今まで以上に曲を作ることに専念した。この中の何曲かが『スペース・シャンティ』に、また、後にリリースされた僕のソロ・アルバム『フィッシュ・ライジング』(1975)にも収められている。
1970年の12月、大学を中退したすぐ後のことだが、エッグにいる僕の友人達がロンドンのデッカ・スタジオでデモ・テープを作るために僕を手伝ってくれた。これには、このアルバムに収録されている「スペース・シャンティ」、「星を見つめる二人」も含まれている。このデモを通して、また、キャラヴァンのマネージャーであるテリー・キングを知っていた関係で、デッカのブランチであるデラムとレコード契約をすることが出来た。デッカ・レコードは、ポリグラムに吸収され、レコード会社としてその存在がなくなってから長くなるが。それから僕はバンドを作ることに取りかかった。リズム・セクションは、ベースにニック・グリーンウッド、ドラムにエリック・ピーチェイだった。ニックはかつて、僕のもうひとつのフェイヴァリット・グループのクレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンのメンバーであった。そして、エリックは、ニックと共にバンドを作りアメリカで活動をしていた。僕らはこの新しいグループをカーンと名付けた。
キーボードについては、いろいろなタイプのキーボーディストを試してみたが、カーンにふさわしいプレイヤーを見つけるのには苦労をした。1971年11月、カーンのアルバムのレコーディングを行なうことになったとき、僕は、ゲスト・プレイヤーとして、デイヴ・スチュワートにキーボードを頼もうと決めたのだ。そしてレコードは1972年の2月に完成。このレコードのプロデュースはエッグのアルバムも手掛けた二一ル・スレイヴンが行なった。ほとんどの曲はカンタベリーで書かれ、スタジオに入る前に、数多く行なわれたコンサートでリファインされていった。このレコードは爆発的ヒットとはならなかったが、セールスとしてはまったくうまく行ったのである。僕は、今でも、これを通じて初めて僕の音楽を知ってくれた人々とは交流を続けている。それに、僕の作品ではこれがベストだったという人々に会ったことさえある(これを頂点として、後はすべてレベルが落ちたということか?)。
なぜ、1972年2月に、僕がカーンの活動をやめてしまったのか………たとえデイヴが正式メンバーとして参加することになったとしても………人々は不可解に思っているかもしれない。それは、その当時、僕がまだ非常に若かったこと(20歳から21歳くらいだった!)、そして、僕自身のグループだというプレッシャーに抑圧されていたのだということが思い出される。僕は、グループのフロント・マンとなるより、むしろ、グループの一員として活躍したかった。そして、ソフト・マシーンにいたケヴィン・エアーズと、その後、デヴィッド・アレンズ・ゴングでプレイするようになったのである。また、デイヴはキャラヴァンのリチャード・シンクレアとともに、ハットフィールド&ザ・ノースを結成することになった。
これは長いストーリーの第1章にすぎない。しかし、僕にとっては、僕の本当の音楽のキャリアが、このカーンの『スペース・シャンティ』から始まったということなのである。
スティーヴ・ヒレッジ ロンドン1991年9月』
(以上 ポリドール・レコード・リリースのCD POCD-1845[スペース・シャンティ/カーン] 解説書より)