今日も仕事に身が入らない。
こんなことを言っているばやいではないのだが…
そうして 自分は また ここに
逃避してしまった
ダメ バカ アホ カス
言わば言え
笑わば笑え
その通りなんだから……
岡本太郎さんはよく
「先進国に行っても意味がない。そこにはもう何もない。途上国、特に中南米に行きなさい。メキシコなんかがいい。」
と云っていた。本人も自らメキシコに赴き、近年修復公開された超大作「明日への神話」を製作している。
明日への神話オフィシャルページ
岡本さんの心をとらえそうなモノがある。
「生と死の面」である。
この大胆さ。ユニークさ。ダイナミックさ。そして面白さ。
「こんなもの、世界のどこにもない」
という唯一無比の存在感が、ここにある。

「生と死の面」前1300~前800年メキシコ、国立人類学博物館蔵 片面は舌を出した生者の顔、もう片面で骸骨をかたどった面。メキシコでは死は生のすぐ隣にある。
縄文土器が大好きで、大いなる影響を受けた岡本太郎さんだ。
きっとこの仮面も大好きだったに違いない。
最近、メキシコ在住のアーティストが製作した。といってもわからないお面だが、なんと紀元前1300~800年に製作されたらしい。オドロキである。
以下は「太陽 1992年9月号 (平凡社発行)」の記事から。吉田喜重さんの解説。
『 メヒコ、あるいはメキシコの人びとは、死を呪われた、おぞましいものとは考えずに、むしろ歓ばしきシーニュ、記号として、それと戯れ遊ぶことのできる、陽気な道化師である。
画家ポサダが描く骸骨によって知られるように、この国では十一月二日の、「死者の日」の祭りには、人びとは骸骨の仮面をかぶり、「わたしはお前、お前はわたし」と言葉をかけあい、哄笑する。
それは生と死とを区分けせずに、自由に変換可能なパラダイムとしてとらえていることを意味している。死者は二度とよみがえらないと信じている人びとには、悪い冗談としか思われないだろうが、しかしメヒコの人びとの方が、はるかに明晰な記号論者である。
たとえば人間はかならず死ぬ運命にありながら、誰もそれを経験できない。死人に口なしであるかぎり、しょせん死とは虚構にすぎず、それはどのように語られてもよい。この国の人びとはそのことをよく知っており、死とはシーニュの戯れ、記号の遊びでしかなく、それはカーニヴァルの狂宴に見られる異化作用、聖なる王は追われて乞食となり、かわって乞食が王の地位につくという、あの咲笑の道化芝居を、生と死にも仕掛けようとするのである。』
この文章を書いた吉田喜重さん。松竹ヌーヴェルヴァーグで有名な映画監督。ただし、自分が好きなのは松竹を退社した後の「エロス+虐殺」「告白的女優論」「戒厳令」の3本だ。長く、理屈っぽいところがある映画なのだけれど、その欠点を覆い隠して余りある“新しさ”があるノダ。
こんなことを言っているばやいではないのだが…
そうして 自分は また ここに
逃避してしまった
ダメ バカ アホ カス
言わば言え
笑わば笑え
その通りなんだから……
岡本太郎さんはよく
「先進国に行っても意味がない。そこにはもう何もない。途上国、特に中南米に行きなさい。メキシコなんかがいい。」
と云っていた。本人も自らメキシコに赴き、近年修復公開された超大作「明日への神話」を製作している。
明日への神話オフィシャルページ
岡本さんの心をとらえそうなモノがある。
「生と死の面」である。
この大胆さ。ユニークさ。ダイナミックさ。そして面白さ。
「こんなもの、世界のどこにもない」
という唯一無比の存在感が、ここにある。

「生と死の面」前1300~前800年メキシコ、国立人類学博物館蔵 片面は舌を出した生者の顔、もう片面で骸骨をかたどった面。メキシコでは死は生のすぐ隣にある。
縄文土器が大好きで、大いなる影響を受けた岡本太郎さんだ。
きっとこの仮面も大好きだったに違いない。
最近、メキシコ在住のアーティストが製作した。といってもわからないお面だが、なんと紀元前1300~800年に製作されたらしい。オドロキである。
以下は「太陽 1992年9月号 (平凡社発行)」の記事から。吉田喜重さんの解説。

画家ポサダが描く骸骨によって知られるように、この国では十一月二日の、「死者の日」の祭りには、人びとは骸骨の仮面をかぶり、「わたしはお前、お前はわたし」と言葉をかけあい、哄笑する。
それは生と死とを区分けせずに、自由に変換可能なパラダイムとしてとらえていることを意味している。死者は二度とよみがえらないと信じている人びとには、悪い冗談としか思われないだろうが、しかしメヒコの人びとの方が、はるかに明晰な記号論者である。
たとえば人間はかならず死ぬ運命にありながら、誰もそれを経験できない。死人に口なしであるかぎり、しょせん死とは虚構にすぎず、それはどのように語られてもよい。この国の人びとはそのことをよく知っており、死とはシーニュの戯れ、記号の遊びでしかなく、それはカーニヴァルの狂宴に見られる異化作用、聖なる王は追われて乞食となり、かわって乞食が王の地位につくという、あの咲笑の道化芝居を、生と死にも仕掛けようとするのである。』
この文章を書いた吉田喜重さん。松竹ヌーヴェルヴァーグで有名な映画監督。ただし、自分が好きなのは松竹を退社した後の「エロス+虐殺」「告白的女優論」「戒厳令」の3本だ。長く、理屈っぽいところがある映画なのだけれど、その欠点を覆い隠して余りある“新しさ”があるノダ。