
目の前にウルトラミニをはいたお姉さんが居て、エスカレーターに乗っている。自分はその下の段におり、黙っていてもスカートの中身が見える状態だ。そこから黙って眺めているか、目を逸らすかは趣味嗜好性質の違いということになろう。
そこから妙な正義感を震い起こしてしまい
「お嬢さん、見えちゃってますよ」なあんてご忠告なんかをする輩は余計なおせっかいであって愚の骨頂。彼女自身そんなことは百も承知で街を闊歩しているのだから。
問題なのはそこから先。もう見えているのだから、そこで満足していれば良いものを、より一歩踏み込んで、もっと近くで、もっと別の角度で見たい、あわよくば触ってもみたい、なんてどこぞの手鏡教授よろしく、紳士ならば簡単には見せない欲望の深淵を簡単に曝してしまう。中には「この女は俺に気があるのじゃないか。」
などと勘違いを起こす低劣な頭脳の男もいるものだから、この至って平和で罪のない出来事が、思わぬ醜悪な事態へと発展してしまう事だってある。
だから、自分は今回の事態について不服を言うつもりはない。しかしながら、ただ2点について憂慮をしているのみである。
一点は、その『質=クオリティ』について。
現行では、内容の如何に関わらず、質の高いものも、劣悪なものも一把ひとからげにまとめられてしまっている。荒木惟経、石川洋司、清岡純子、デヴィッド・ハミルトンが心血注いで撮影した作品も、どこかの暴力団構成員が小遣い稼ぎに撮った物でも、全く同じ扱いなのだが、このままでよい筈がない ということ。
もう一点は人間の『性(さが)』について。
人間は、多岐に渡る嗜好を有する生き物となった。フェティシズムなるものは、数多い地球上生物の中でも人間のみが会得した性癖だろう。「俺、ホントはブーツ・フェチなんだぁ」「えっそうなの?私は手袋フェチよ」と日常会話で表現されるようになった昨今が正常な社会といえるのかどうか、自分は語る頭脳を持ち合わせないが、もともと表に出てくるような内容のものでないということ位は解る。
フェティシズムとは別の物であるが、もっと本能に位置しているもの。それが「ニンフェット」なのだと思う。
そして、太古の昔からこの「ニンフェット」的性癖を持つ人間は存在してきた。これについては私がここでいちいち書き出さなくとも、ほとんどの人が知っていることだろう。
中には平気で幼児を何人も手にかける附属池田小事件の宅間守のような凶悪な者もいよう。だがその心を内に秘めたまま、普通の社会人として健全に暮らすウラジーミル・ナボコフやルイス・キャロルのような人たちも居るのだ。いやむしろ、健全に暮らしている人達の方が圧倒的に多いのだ。要は理性の問題で、これを普段からしっかり鍛えている人間は、道を踏み外すことはあるまい。犯罪に手を染めるのはその中の極一部に過ぎない。
問題は地位も名誉もある人間に、一番大切であるべき理性を持ち合わせていない場合があること。
全く恥ずかしい話だが、少女達を金で買ってあれこれ試し、投稿してその筋の巨匠とまで言われていたという小学校教頭は、自分が住んでいる町の人間だ。
この投稿小学校教頭の様な理性が壊れた下劣な犯罪者と、一般人とは多少種類が違うけれど確固とした理性を持った人達を同種として扱い、片隅へ追いやるのは、いや、居場所すら撤去してしまおうという世界的な動きは果たして正しい事なのか。
押さえ付ければ押さえ付けるだけ、地下へ潜り、黒く重く沈化し、穏やかであった人間をも凶悪化させてしまうのではないか、という危惧を抱いてしまう。
「ニンフェット」は病気である。という考えもある。百歩譲って、もし「ニンフェット」が犯罪的性癖であるとするのなら、積極的な“更正”の機会を与え、医療によって解決できるものは治療の援助をするべきである。そこまでやらずに取締まりだけを強化して行くだけというのは、更なる凶悪犯罪を助長するだけだ。
事実、幼児を狙った凶悪犯罪は増えている。歪んだ性欲が日々のストレスで増幅され噴出してしまうことが恐ろしいのだ。
せめて小さな居場所と治療の場は用意しておくべきだ。
最後にもうひとつ、私は、子供達が取捨選択能力に乏しく、自分の考えや行動に責任を全く持てない存在だとする今の考えは、子供達を馬鹿にしているものであって賛成できない。むしろ犯罪を煽るものではないかとも考えられる。17歳で「騙された。強制された。」一辺倒で本人の責任は問われずに一方的被害者となり、人々の同情を得てしまうのはこの弊害だと思う。