昨夜レコードを引っ張り出して聴く気になったのはニュー・トロルスの“Concerto Grosso Per I”。このアルバムは70年代当時噂に聞くだけで、わが地方都市ではジャケットすらまともに見たことがないまさに幻のアルバムだった。それが1979年、キングのユーロピアン・ロック・コレクションの一枚としてついに国内発売されたときは狂喜乱舞して買い求めたことを思い出す。そして、当時の私はこの名作の誉れ高い作品に、少々“がっかり”したのだった。“がっかり”?そう。当時の私はメロトロンのサウンドに取り憑かれていて、ここで聴くことが出来るストリングスの音色を素直に評価できなかったのだろう、と思うこと。『to Die,to Sleep,Maybe to Dream』とリフレインされる歌詞がしつこくて嫌になったこと。かなりカカリ過ぎでオーバーなたかみひろし氏と伊藤政則氏の解説への反発。映画のサントラ盤であるということ。そして、全編を通して感じさせられる暑苦しさ、であった。

当時はすでにパンクやニュー・ウェーヴが隆盛を極めつつあった時代であったから、この時代錯誤ともいえる(イタリア人特有の)暑苦しさは、大のプログレ・ファンであった自分にも耐えられないものとなっていた。
しかして、27年の時を越えて聴いた昨夜の感想は、全く異なるものとなった。
『新鮮な驚きがあった』のである。
異常なまでの美意識と感情移入。若さゆえの特性である生と性のエネルギーとパワーが混とんと混ざりあい、せめぎ合い、ぶつかり合って炸裂したサウンド。これらはクール過ぎて人間関係も希薄な現代のロック界にはないものである。そして、メロトロンの呪縛から解かれて聴いたストリングスの素晴らしさ。少しオーバーな表現を使わせてもらうと、あのフェリックス・アーヨ率いたイ・ムジチの傑作「イ・ムジチ合奏団=ヴィヴァルディ 協奏曲集「四季」」を思い出しさえしたのである。歌詞のしつこいリフレインもそんなに気にならなかったのはナゼなのかとも思えてくる位である。
そして、他人がどう思おうが、時代錯誤かも知れないけれど強烈な美意識をもって望んでいる熱いバンドをまた演ってみたい。長年楽器に触れても居ないくせに、こんなことを考えてしまった。
かくして27年の時を経て、『コンチェルト・グロッソ I』は私の名盤棚の中に収まった訳である。めでたしめでたし。
しかしながら、今も同じ嫌な感想が浮かんでくるのは両氏の解説である。この大げさぶりだけは今でも許せない。

当時はすでにパンクやニュー・ウェーヴが隆盛を極めつつあった時代であったから、この時代錯誤ともいえる(イタリア人特有の)暑苦しさは、大のプログレ・ファンであった自分にも耐えられないものとなっていた。
しかして、27年の時を越えて聴いた昨夜の感想は、全く異なるものとなった。
『新鮮な驚きがあった』のである。
異常なまでの美意識と感情移入。若さゆえの特性である生と性のエネルギーとパワーが混とんと混ざりあい、せめぎ合い、ぶつかり合って炸裂したサウンド。これらはクール過ぎて人間関係も希薄な現代のロック界にはないものである。そして、メロトロンの呪縛から解かれて聴いたストリングスの素晴らしさ。少しオーバーな表現を使わせてもらうと、あのフェリックス・アーヨ率いたイ・ムジチの傑作「イ・ムジチ合奏団=ヴィヴァルディ 協奏曲集「四季」」を思い出しさえしたのである。歌詞のしつこいリフレインもそんなに気にならなかったのはナゼなのかとも思えてくる位である。
そして、他人がどう思おうが、時代錯誤かも知れないけれど強烈な美意識をもって望んでいる熱いバンドをまた演ってみたい。長年楽器に触れても居ないくせに、こんなことを考えてしまった。
かくして27年の時を経て、『コンチェルト・グロッソ I』は私の名盤棚の中に収まった訳である。めでたしめでたし。
しかしながら、今も同じ嫌な感想が浮かんでくるのは両氏の解説である。この大げさぶりだけは今でも許せない。