木は生きている。


よく、若い頃から年配の棟梁辺りから聞かされて、

そう、何人の人たちに伝えてきただろう。

お客さんにさえ、何度かアピールしてきた。

確かに、日本の桧を代表する、構造材の多くは、ミリ単位の精度の加工をして納めても、半年もしないうちに、仕口( 材の繋ぎ箇所 )に隙間が出来たり、逆に割れて捻れたり、 現代のプラスチックの建材では、あり得ないことが普通に起こるのだ。

だから、腕のいい大工は、それを見越して、わざと透かしたり、何より材料の吟味と、適材適所、上手に木をあてがうのだ。

だから、決して働き者のアンドロイド大工が登場しても、下手 しか出来ないのだ。


これは、大概の昭和の人たちなら、みんな知ってるだろうし、

また、木がフィットンチッドを匂いと共に

放出し、調湿効果があること、

まさしく、本物の木は、生きてるようでないか!


しかし。

真実は、建材となったどんな木も、

生きてはないのだ。


確かに、新築の春先、柱の角から、木の芽が現れたなどと聞いたことないし、

柱の根元の土台にヒゲ根がびっしり、

なんてのも聞いたことがない。


やはり、製材された木は、生きてはないようだ。

どころか、なんと、

樹齢が重ねた、用材となる堅木の部分は、

伐採される前から、既に生きてはない!

とからしい。

若木の枝葉の部分と 表皮の導管部、根の毛根など、代謝を行っている部分以外は、既に生命活動を終えてるらしい。

生命を終えて尚、生命のガタイとなっている!

その特質がそのまま、日本建築のかけがえのない用材につながってるのだ。

台風に豪雨に、度重なる地震を超えて。


樹齢500年の桧が使われ、建立から1350年、今でも世界一の木造建築として、

雄々しくも、麗しく建ってしかも

腕一杯に広く軒を広げてるのだ。


それに比べ、我ら人間は、

生まれ、気づけば、日々我良しの、

欲と、妬みと、自我にからまれ、

からまれてるのかからんでるのか?

いまさら、離れられない、自我になり。


たかだか 生きても百年なれど、

枯れても咲いてる紫陽花にもなれず。

あんな美人も、

あんなシュットな美男子も、

二週間で、ウジの餌。

白骨なるまで、未練の腐敗の臭いをまとい、

せめて、額の傍に咲く 菫の色に、

仏にもどる夢をみる。


照れずに握れる、そのぬくみ、

遠の昔に 命終わりし、

ただ一辺の木片に、我、

癒されし・・。