Petal Counting -2ページ目

Petal Counting

Petal Counting (ペタル カウィンティング)とは、
花びらの恋占いという意味です。
占いサイトではありませんよ~
宝塚歌劇団の大好きなワンシーン…
をイメージしたブログ名です。
日常の様々なことを、素直に綴っているブログです。

訪問してくださり、ありがとうございます。

 

せりの☆です。

 

お盆休みは九連休でしたが、前半はお墓の掃除や、仏壇の掃除、

実家の片付けなどで、肋間が痛くなり、

後半は持ち直して、自分の家のキッチンを片付けたり、

色々と冷蔵庫の食材を整理して、汗だくで調理したりで、

毎年のように最後には内臓疲労の状態でありました。

 

ブログ更新は、またまた間が空いてしましましたねぇ。

サボリではないのです。

PCは毎日開けているのですが、仕事関係のメールの処理などを

しているうちに、時間が過ぎていく…

後は仕事に関する作業もあるので、ブログに手が回ってないと

いう感じです。

本当は、ここは自分の言葉で自由に綴れるので、一番書きたい

ところなんです。

これからは記事更新頑張ります。

 

さて、ブログ記事タイトルにあるつぶやきの最終章。

令和について、を簡単に書きたいと思います。

令和になった瞬間、とても感慨深く思いました。

現在の天皇陛下が即位される以前は、皇太子殿下でしたが、

それよりも、浩宮さまという称号がいつまでも心に残っています。

私は浩宮さまと同年代なので、周りには『浩』という文字を使って

いる名前が多かったと、今更ながら思い出しました。

男の子は勿論ですが、女の子も浩美とか浩子とか、多かった

です。

少しでもあやかりたい、それだけ国民から愛されて

慕われていたお名前だったということでしょう。

 

天皇陛下に即位されて、お元気そうなお姿を拝見すると、

ほっとします。

愛子さまを大切にされているご様子も、ほほえましいです。

我が家も一人娘なものですから、凄く心情が伝わる気が

しております。

 

令和、という元号もすっかり馴染みましたね。
ちなみに、新しい元号を家族で予測していた時、
私は『浩』が入るのかな~と思っていました。
それか、礼節を重んじるということで、『礼』も良いけど、
礼宮さまがいらっしゃるからそれはないだろうし、
『麗』だと画数が多くて簡単に書けないし、
でも何だか『れい』という響きが良いな~とちらっと
頭をよぎりました。
まさかの『令』とはびっくりでしたが、響きが綺麗だと
思うので、とても良かったと思います。
そういえば昔の友人に令子さんっていたなぁとか
また色々と思い出しておりました。

つぶやきは大したことありませんが、この辺で
おしまいにしますね。
また何か思い出したら、書きたいと思います。

昭和・平成・令和と三つの世代を過ごしてきて、
亡き祖母は明治生まれだったな、とか
父や義父は令和を知らずに逝ってしまったな、とか
お盆のお参りの時に、色々と思い出しながら
心で語りかけていた私です。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

それではまた☆

 

なんだかんだとブログ更新が飛び飛びですが、

訪問してくださった方、ありがとうございます。

 

せりの☆です。

 

前回の記事にいいね!を付けてくださった方々、

ありがとうございます☆

 

自分の記事がスルーされてない、読んでくださる方が

少しでもいらっしゃることは、とても嬉しいです。

 

さて、大袈裟なような記事タイトルの第二弾、です。

 

昭和の思い出は、勿論たくさんありますが、

私個人としては、昭和から平成にかけての出来事が

人生においての大きな岐路でしたので、

ここに記録しておきますね。

 

私は結婚を決めたのが、とても速いスピードでした。

何しろお見合いの二日後に結婚を決めましたから。

 

確かに出会ってからすぐに結婚なんて信じられないと

いう人もいるかもしれませんが、

そもそもお見合い、というのは、結婚の意思がお互い

にあること、お見合いに至るまでに相手の素性や条件が

ほぼ分かっていることなので、

結婚を前提にしないお付き合いというものは、基本的に

存在しないわけなんですよね。

勿論、結婚を前提にお付き合いを始めても、やっぱり

相性が合わないとか、結婚までに至るにはちょっと無理

がある場合もあるでしょう。

私と夫は、お互いに幾度となくお見合いの経験がある

だけに、直感的に決断が速かった、ということになります。

 

半年後くらいに挙式・披露宴をと考えていた私達。

しかし、お互いの仕事のスケジュール、身内の予定など

から、前倒しになり、1月に結婚式をということが、

急きょ決まりました。

そして、急いで住むアパート探しをして、式の1ヶ月前に

入籍を済ませました。

それが昭和63年12月のこと。

結婚式の招待状にも、【昭和64年1月】と印刷されました。

 

ところが、年が明けて、天皇陛下の崩御の知らせ…。

元号は昭和から平成へと変わりました。

 

結婚式場は既に予約してありましたし、崩御からすぐに

ではありませんでしたので、

予定通りの日程で、挙式・披露宴を行いました。

当時、披露宴の締めくくりに『万歳三唱』をお願いしていた

方には、このタイミングなので別の言葉にして頂いて…。

 

色々なことがありましたが、多くの方々に列席して頂き、

人生の新しい第一歩となった記憶が今でも残っています。

 

この結婚に関しては、後日談があります。

[結婚記念日をどうするか]です。

私達夫婦にとっては、入籍はあくまでも新居を契約する

際に行ったことだったので、

12月を[入籍記念日]

そして、1月を[挙式記念日]として、2回お祝いして

毎年過ごしていました。

でも、数年後、何と[挙式記念日]の乾杯をしようとした

まさにその瞬間、電話が鳴り…

入院中だった、私の祖母が亡くなりました。

以降、その日は[祖母の命日]となりました。

 

そして、私達夫婦は、昭和63年12月に入籍した日を

[結婚記念日]として統一していこう、ということに

なりました。

昭和の終わりに結婚し、平成は新しい人生そのものと

して、月日が流れていきました。

 

お互いの両親、兄弟姉妹、そして親戚と…

結婚することで、たくさんの関わりが自分の周りに

何倍にも増えていくこと、これはとても幸せなのだと

思いました。

新しい命が生まれ、喜びの涙もたくさんあったし、

いくつものお別れがあり、哀しみの涙もたくさんありました。

 

紆余曲折があった結婚生活の中、

毎日が平穏というわけではなかったし、危機的なことも

少なからずありました。

(いや、結構あったかも?ですね。心の声は…)

 

気付けば、真珠婚(結婚30年)を過ぎました。

平成が終わってしまうのが、とても淋しく感じたのは、

無我夢中で生きてきた、妻として、母としての自分を

振り返ってみたからでしょうか…。

 

 

読んでくださり、ありがとうございます。

 

この続きは次の記事へ…。

 

ではまたね~☆

 

久しぶりのブログの更新です。

せりの☆です。

 

5月、6月は色々と忙しくて、あっという間に過ぎてしまい、

ブログを書きたいけど、書けないジレンマが続いていました。

 

久しぶりに更新したいものの、書きたいことは実はたくさん。

ドラマの感想とか、好きなタレントの話題も書きたいけれど、

まずは改元の節目なので、ちらっとだけ触れますね。

 

昭和に生まれた私、その人生にとって大きな出来事は、

まずは転校でしょうか。

青森県の田舎で過ごしてきた私は、14歳で親の転勤に

伴い、宮城県に転校してきました。

出身地…の定義は、15歳くらいまでを過ごしてきたところ、

のようですが、そうなると私はどうなるのでしょう?

宮城県で過ごしてきた年数の方が、はるかに長いのです。

でも、やっぱり青森県出身、という気持ちはありますね。

 

青森県から宮城県へ転校してきた時、私を悩ませたのは、

言葉のイントネーション。

転校生の挨拶、何度も練習して自宅でリハーサルをした

つもりが、緊張のあまり、青森イントネーションでの挨拶と

なりました。

頑張ってイントネーションは直していきましたが、方言と

いうものは、自分で気付かないことがあるのです。

 

ある時、体育の時間のこと。

「今日は寒いから、手袋を履かないとダメかもね~」

頑張って、皆の仲間に溶け込もうとしていた私に、

『でた~!青森の方言!』という言葉が浴びせられました。

子供の頃から、手袋を履く、ということが当たり前で育った

私にとって、宮城ではそれが通用しない、馬鹿にされる

わけだったんですね。

悔しかったです。

転校したことが、とても辛くなりました。

 

現代では、こういうことがイジメの始まりとも言えると

思うことがあります。

なまりとか、方言とか、イントネーションが何だ!ってこと

ですけど、当時の私はとても傷付きました。

今でいう、イジメは、方言だけではありません。

制服の上着に、ついてもいないはずの肩のフケを、

いかにも…のように手で払ってくれる行為は、迷惑でした。

また、髪の毛が茶色い私に、赤毛だとか言う人もいました。

 

周りの態度が変化していったのは、そういうことにイチイチ

気弱にならなかったこともありますが…。

たまたま自分がクラスで唯一100点を取った科目などが

いくつかあって、今までクラスでトップの成績だった人よりも、

目立つことが数回ありました。

成績では勝てない、と思ったのか、嫌がらせなのかイジメ

なのか分からないような態度は段々に減りました。

 

こういうことを親に相談できるかどうか…

現代でも言えると思うのですが、私は取り合えず学校で

起こったことは親に伝えていました。

但し『人の振り見て我が振り直せ』が口癖の父親などは、

味方になるような会話は皆無で、結局は自分で乗り越えて

いくしかなかった記憶があります。

別に特別自分が強かったわけではありません。

苦しいこと、辛いことがあると、ひたすらノートに書き連ねて

いました。泣きながら…。

 

宮城県に移り住んでから、何十年も経ちますが、結局は

宮城県も田舎だということを実感しています。

大体、転校してきた時、[ジャス]とみんなが呼ぶのは、

何だろう~と不思議でした。

ジャージのことですね。

青森県にいた頃は[トレパン]でした。

トレーニングパンツの略です。

共通語になぞるなら、どっちが通じるのかな、と考えたりした

ものです。

 

宮城県生まれの宮城県育ちの夫と結婚してからは、夫の

イントネーションが何だかほっとして、宮城の方言も愛着が

湧き、東北全体が好きだな~と思うようになりました。

 

昭和の思い出は色々ありますが、自分史の中で転校という

ものは大きな出来事でしたので、書きとめておきたいと

思います。

 

この続きは次の記事へ…。

 

ではまたね~☆