映画「どですかでん」のこと その2 -2020年にみる- |      生きる稽古 死ぬ稽古

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ー毎日が おけいこ日和ー
        

映画「どですかでん」に

ハマっているということを書きました。

↓これです。

この映画は、1970年公開の

黒澤明監督初のカラー作品です。

 

四騎(よんき)の会といって、

木下恵介・市川崑・小林正樹という

錚々たるメンバーとともに、

黒澤監督はこの映画を作りました。

 

が、意気込んだ作品であるにも関わらず

客の入りはさっぱりだったようで、

四騎の会は、この一作をもって解散してしまいます。

 

ならば、今ならどうか?

DVDを通して、

今みている人たちの評価はどうなのか?

 

。。。レビューで検索してみましたが、

やっぱり若い人たちにはピンとこないようで

レビューの評価も散々でした。

 

そんな「どですかでん」に、

なぜ自分がどハマりしているのか?

を考えた時、

2020年、ということも

大きく関係しているのではないか?と思って

そのことを書いてみることにします。

 

 

この写真は「どですかでん」ではありませんポーン

映画「グランドホテル」のワンシーン

グレタ・ガルボとジョン・バリモアです。

 

この「グランドホテル」という映画は、

いくつかの客室で起こる様々な出来事が

たくみにすれ違い、関連しあって

全体を構成しています。

 

この映画が素晴らしかったために

これ以降、いくつかのキャプション、

いくつかの物語が集まってできる作品は

<グランドホテル形式>と呼ばれるようになりました。

 

映画「どですかでん」は、

というより、その原作である「季節のない街」は、

この<街>に住む何人かの住人や家族について

断片的に語っているという、そんな筋書きの作品なんです。

<グランドホテル形式>の作品ですね。

 

 

 

 

(↑いちおう、ここにも貼っておくね)

 

この舞台となる<街>というのが、

これがね、

貧乏長屋といいますか

貧民窟といいますか

ともかくオンボロな、貧乏人ばかりが住まう場所なんです。

 

で、初めてこの映画を見た時には、

これは終戦直後くらいの話じゃないんだろうか?

って思ってたんですけど、

山本周五郎がこの小説を書いたのは1962年。

朝日新聞で連載しています。

そして映画が公開されたのは1970年。

言ってみれば<かなり最近>です。

 

これを読んでくれている方が

もし60代以上だったら、

同世代をモチーフにした物語だと言えるんです。

 

この<街>に住む住人たちの

いくつかのエピソードというのは

起承転結などまったくありません。

先ほど断片的な、と書きましたが

それぞれの人の、ある日常の一片を

そこだけを切り取ってお見せします

というだけのものなんです。

 

原作の方にある別のエピソードでは、

彼がどこに行ったのか誰も知らない

とか

この後どうなったかわからない

というようなものもあるし、

映画の中のエピソードにしたって

たぶんこの人はこのままずっとこうやって生きていくんだろうなぁ

というような、

別に生きていく先になにか希望があるわけでもない

そういう人たちの話ばかりが続きます。

 

1970年という時代を日本で生きてきた人たちには

とてもよくわかると思うんですけど

あの万博に象徴されるように

キラキラと光り輝く未来に向かって

<貧乏くさかったワタシタチ>のことはとりあえず忘れようとして

明るい方へ向かって走り出していこうゼ〜〜!!

というような雰囲気だったんです。

 

そんな時代に、

こんな映画は人気が出るはずありませんよね〜〜チーン

 

 

↑初のカラー作品であるまじき暗さ滝汗

暗い画面では徹底的に色味を抑えています。

 

で、今は2020年。

日本はなんとか平和を保ち続け、

世の中の大半の人は裕福に暮らしていました。

そんな中、コロナ禍がドンと来た。

 

ドンと来たところで

病いにならず、もともと裕福だった人たちには

さしたる影響もありません。

困った人たちはトコトン困っていて

そうでもない人たちにはほとんど被害がない。

 

こういう現実の中で

いやでも自分の生き方ということを

問われてしまうんです。

どうするんだ?

どうやって生きていくんだ?

落ち込まないようにするには?

まわりとのつながりを保っていくには?

なにかできることはない?

エトセトラ、エトセトラ(←昭和爆  笑

 

たまたま、

本当にたまたま、なんですよ

私がこの映画をみたのはね。

 

もう、そうするとね。

ぶっ飛ぶわけです。

思考というものがね。

 

口さがない近所のヒトたちなんて

所詮どうやったって勝手な目で見た評価しかしないものだし

客観的にどう見えたとしても

そんな基準で本人の心の中までは推し量れない。

主観と客観

現実と空想

罪と罰

獣じみていること人間らしくあること

両方の極と極とが交錯して

落とし所もなく

空に投げ上げられます。

 

生きるとは◯◯である

 

という答えなどない場所。

そんなものを必要ともしない場所。

映画、小説の中の登場人物たちも

1970年を生きてきた人たちも

2020年を生きているワタシタチも

手を替え品を替え

手が替わり品が替わっているだけで

ごちゃごちゃと生きているんですよね。

 

で、この映画を見直して

この小説を読み直して

なにか<答え>が見つかったわけではありません。

 

もちろん

あんな不幸なヒトたちがいるんだから

自分なんかまだマシ

みたいなしょーもない優越感でもありませんよ、念のため上差し

 

<良き状態>であらねばならぬ

わけでもないし

<幸せ>であるとか

<幸せをめざす>ことが

生きる目的ではないし

地べたを這っていても

暗闇に取り残されても

孤独の中で明日を迎えても

モラルなんぞ吹っ飛ばしても

それは生きてるってことで、

そうやって生きてるということも

生きてることなんだよね〜〜

という。。。

 

言葉にすると

なんだかよくわからないんだけれど

私がこの作品にハマったことのひとつは

この

<生きてるヒト>と出会った

ということなのかもしれません。

 

エピソードに出てくる人たちの

生い立ちってどんななんだろう?とか

その後、どうしたんだろう?とか

なんであんなことを言ったんだろう?とか

そうやって

一人一人のヒトのことを

勝手に自分の中で

アレコレと考えたりしているんです。

 

で、ハタと気づく。

これはノンフィクションではないのだと爆  笑

 

決して恵まれた環境とは言えないのだけれども

<不幸を嘆いている>ヒトばかりでないのがおもしろい。

 

死にたいオッチャンでさえ、

最後は必死に生きようとしちゃってるしね。

 

小説にも映画にも

どこかに明るさとかユーモアとかがあるんです。

それもこの作品の素晴らしいところなのですよね。

 

締めの言葉が見つからないので

グダグダのまま、終わります口笛