(物語)
ピエールは、祈祷が行われた日曜日(1812年7月12日)の前日、親しく交際しているラストプチン伯爵から、ロシア国民への檄文と軍の最新のニュースを貰って来る事をロストフ家に約束していました。
その朝、ピエールがラストプチン伯爵家を訪ねると、軍からの急使が到着したばかりの所でした。
急使は、ピエールの知っている、モスクワの舞踏会の常連の1人でした。
「お願いですから、少しこの荷を軽くしていただけませんか❓この袋はご両親達への手紙で一杯なんですよ。」
それらの手紙の中に、父に宛てたニコライ・ロストフの手紙も有りました。
ピエールはその手紙を預かりました。
その他、ラストプチン伯爵は、刷り上がったばかりのモスクワに対する皇帝の檄文と、軍に対するいくつかの命令と、自分の最も新しい布令を、ピエールに渡しました。
ピエールはその1つに、死傷者や戦功者の公報の中にニコライ・ロストフの名前を見つけました。
彼は、オストローヴナの戦闘における殊勲によりゲオルギイ4級勲章を授与されていました。
さらに、その同じ命令書の中に、アンドレイ・ボルコンスキー公爵が狙撃兵連隊長に任命された事が記されていました。
ピエールは、ロストフ家の人々にボルコンスキーの事を思い出させるのは嫌でしたが、息子の叙勲の公報で彼らを喜ばせたい気持ちを抑える事は出来ませんでした、それで彼は、檄文と布令と他の命令書は会食の時に自分が持って行く為に手元に残し、印刷された命令書と手紙をロストフ家に届けさせました。
ラストプチン伯爵との談話、その不安そうな落ち着かない口調、軍の内部の極めて憂慮すべき状況を呑気そうに語った急使の話、モスクワでスパイが発見されたと言う噂、ナポレオンがこの秋までにロシアの両首都に入城する事を宣言したビラがモスクワ中に流布されていると言う風聞、明後日に皇帝がモスクワに戻られるはずだと言う流説ーーこうした全てが、すい星の出現と、特に戦争の開始以来ピエールの心を去らなかったあの激動ともどかしい思いを、新たな力でピエールの内部に煽り立てるのでした。
ピエールの心には、もうかなり前から軍務に就こうと言う考えが生まれていました。
そして、次のような理由に妨げられなかったら、彼はその考えを実行していたはずでした。
①彼は、永遠の平和と戦争の絶滅を説くフリーメーソンの結社に所属し、誓約によって結び付けられている。
②彼には、軍服をまとって愛国心を宣伝する行為が彼の良心に反すると考えられた。
③最大の理由は、自分もナポレオンと同様に、黙示録に言う666の獣の数の意味を持つ『ロシア人べズーホフ』であり、大言と瀆言(けがしごと)を語る獣(=ナポレオン)の権威の限界を置くと言う偉大な事業に参加する事に、創世以前から定められている、だから余計な事は何もせずに、来るべきものを待つべきである、と言う予想があった。
したがって、ピエールは軍務には就きませんでした。
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(解説)
ここは、別に解説を書くような部分でもないと思います。
モスクワ市民に皇帝からの檄文と軍の最新のニュースを、ラストプチン伯爵からいち早く入手したピエールが、まず、ニコライの叙勲の記事を届けさせると言う話ですね。
これは、ナターシャがラズウモフスキイ家の寺院の礼拝式に出かけた1812年7月12日の日曜日の前日の話を記載しています。
そして、ピエールは、不安定な戦局を耳にする毎に、予てから軍務に就く事を考えていました。
しかし、自分は永遠の世界の平和を誓約したフリーメーソンの会員である事、軍服を着て愛国心を振りかざすのは自分らしくない事、そして何よりも黙示録の予言と自分の運命を重ねており、自分はナポレオンの権威を剥ぐ使命があるはずだ。。と言う彼の信念から、軍務には就けないと思っていると言う話ですね。。
(追記)
はい。ここで日付の矛盾に気づきましたので、ちょっと説明しておきます。
ここで、公報にニコライが叙勲された記事について記載されていますが、ピエールがこれをラストプチン伯爵から受け取ったのは1812年7月11日の土曜日の事になります。
ところが、『第3巻・第1部(12−2)ニコライ、ズドルジンスキイの話と自己の経験を重ね、軍の秩序を考える。』の冒頭で、ニコライが所属するパヴログラード軽騎兵連隊がオストローヴナの戦闘に遭遇したのは、1812年7月13日の午前と記載されています。
おそらく、「戦争と平和」で描かれたオストローヴナの戦闘は、ポーランド側のロシア国境に近い場所の事だっただろうから、ロシア暦ではない西暦❓で書かれている可能性が高いですね。
資料を熟読しながら記載していたトルストイが、資料が西暦❓なのをロシア暦に変換せずに記載したのだろう。。と思われます。
ピエールのモスクワのロストフ家訪問はもちろんロシア暦で記載されていると思います。
ロシア暦は、西暦よりも12日程遅れるんですね、だからオストローヴナ戦闘は、ロシア暦では7月1日の朝の出来事と思われます、そうすれば、ピエールが広報で読んだ日付と矛盾しません。
ま。こんな細かい所を考えながら記載していました。






