(物語)
ニコライは、よく何か失敗や不始末が有ったりすると、「ロシアの民衆ってやつは、、」と、いまいましげに言って、百姓には我慢がならぬ、と密かに思う事が有りました。
ところが、彼は腹の底では、この『ロシアの民衆ってやつ』とその習俗を愛していました、だからこそ、良い結果をもたらしたこの経営の唯一の道と方法を理解し、それを我が物としたのでした。
伯爵夫人マリヤは、夫のこの『愛』に嫉妬し、そこに割り込めない事を嘆いていましたが、しかし彼女には異国のようなこの別の世界が夫に与える喜びや悲しみを、理解する事が出来ませんでした。
夫が夜明けとともに起き出し、朝じゅうを野良や打穀場で過ごして、播種や草刈りや取り入れから朝食に戻って来る時、どうしてあんなに生き生きとして幸福そうなのか、彼女には理解できませんでした。
マトヴェイ・エルミシンという裕福な自作農が、一家中で夜なべで麦束を運び、まだ誰も取り入れが終わらないうちに、彼の所にはもう麦束の(たいせき)が並んでいるなどと、感心したように語る時、夫がどうしてあんなに嬉しそうに目を輝かせるのか、彼女にはわかりませんでした。
乾きかけた燕麦の芽に温かい糠雨(※霧のように細かい雨)がしっとり落ちて来たりすると、どうして夫があんなに嬉しそうに窓とバルコンの間を行ったり来たりして、口髭の下でニコニコ笑ったりするのか❓草刈りや取り入れの時分に、どうして日焼けした顔を上気させ、汗だらけになった夫が、匂うような蓬や蓼の葉を髪にくっつけて、打穀場から戻って来て、嬉しそうに手をこすりながら「さあもう1日だぞ。それでうちの分も百姓の分もすっかり打穀小屋に収まるぞ」などと言うのか、彼女にはわかりませんでした。
それよりももっと彼女に理解出来なかったのは、あの優しい心を持ち、いつも彼女の望みを言わぬうちから察してくれるような夫が、作業を免除してくれるように、彼女にとりなしを頼んで来た村の女房や百姓どもの願いを伝えたりすると、何故ほとんど狂おしいまでに心を乱すのか❓何故あの善良なニコラスが、頑なに彼女の願いを退け、腹立たしげに、関係の無い事には口出ししないでくれと頼むのか❓という事でした。
彼女は、自分にわからぬある法則のある、彼の熱愛する別の世界があるのだ、と感じていました。
彼女が時々彼を理解したいと思って、領内の百姓の為に彼がしてやっている良い事について語り出したりすると、彼は不機嫌になってこう答えるのでした。
「そんな事は全然無いよ、一度も頭に浮かんだ事も無い。彼らの幸福の為になど、何をしようとは思わんよ。そんなものは皆、詩だよ、女どもの戯言だよーー隣人の幸福なんてものはね。僕の望みは、子供達が路頭に迷うような事の無いようにしてやる事だよ。僕に必要な事は、生きている間に僕らの財産を作る事だよ。それだけさ。その為には秩序というものが必要なんだよ。厳しさがな。。これがな❗️」と、彼はその血の気の多そうな拳を握って見せながら言いました。
「それから、無論、公正もだ。」と、彼は付け加えました。
「だって、もし百姓が着る物も食べる物もなく、痩せ馬が一頭しか居ないとしたらだよ、自分の為にも、僕の為にも働きはしないさ。」
そして、恐らく、何をするにも、他人の為に、善徳の為にするなどと言う考えを、ニコライが自分に許さなかったからでしょうーー彼のする事が全て実を結び、身代が急速に増え、近村の百姓達が自分を農奴に買ってくれ、と頼みに来る有様で、死後も長く彼のやり方について、百姓達の間に神聖な記憶が保たれたのでした。
『いい旦那だった。。百姓のを先にして自分のを後回しになさるのだ。それで甘い顔を見せるで無し、一口に言やーー旦那だったよ❗️』
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(解説)
はい。ここは、まあ、若い頃あれだけはちゃめちゃだったニコライが実直に地主業に専念しているという場面ですね。
そして、ニコライの経営方針を支える精神論に注目してほしい、とトルストイが思っている部分だと思います。
妻の伯爵夫人マリヤにとって、ニコライは優しい思いやり深い夫でしたが、如何せん、マリヤは領地管理というものを父の姿を通して見ていた人なのですよね。
父のボルコンスキー老公爵は、絶対に農民達と一緒に労働に励もうとするようなタイプでは無かったと思うのですよね。
彼は上からの絶対的権力で押さえつけて農民達を動かし、農民達も老公爵の逆鱗に触れるのが恐ろしいのできちんと仕事をしていた、という感じだったと思うのです。
だから、ニコライが楽しげに農民達と労働を分かち合う姿に納得が出来ないでいるのですね。
そこへマリヤと話をすることが出来るような農民の奥さんが、マリヤとのコネで「作業を免除してほしい」と言ってきたので、マリヤはニコライにその事を『当然いいだろう。。。』的に話をするのですね。
ニコライは、それについて完全拒否します。
もちろん、ニコライは、その人が病気とか幼子をたくさん抱えているとかいう事情だったら斟酌したとは思うんですよね、明らかに正当な理由だから。
でもね、恐らくマリヤを通して願い出たその百姓女の言い分は『奥さんの友達なんだから、少しくらい優遇してほしい』という希望だったと推定されます。
だからニコライの逆鱗に触れたのですね。
一つの集落が共同して働き、利益を追求するという場合、そういうおかしな不平等を許したら、みんなアレコレ言って働かなくなり、領主一家のご機嫌をとっておけば自分は楽して利益を得る事が出来る、という発想になりがちなのですよね。
ニコライは『これを』言っているのだと思います。
ちょっと話は逸れますが、ナポレオンが自分に忠誠心を見せた士官を、その忠誠心が何人もの兵士の犠牲の上に示されてもその士官を昇格させた。。というあの事件と真逆の事をニコライは実行しているのですね。
組織を崩壊させる危険性は、そういうおかしな不平等を許してしまう、という事に由来する事が多いと彼なりに認識しているのだと思います。
そして、一生懸命働けば、それが報われるという『実例』を積んでいく必要性を強く感じていたのだと思います。
百姓達だって、それぞれ個人的な事情は持っているのですよね。
それでも頑張ったら、それを認め評価する、そういうシステムが大事だという事を言っているのだと思います。
組織が崩壊するような事をすれば子供達も路頭に迷う、ニコライは、恐らく父のロストフ老伯爵の放漫経営からも、軍隊生活からも学んだのだと思います。
そしてね、一番大事なのは、それを領主の自分が率先して示す事だ、という強い信念を持っていたと思います。
だからニコライは、領主として農民達の生活を先に考え自分は後回しにして、そして朝早くから毎日働き続けたのだと思います。
彼の責任感の強さが垣間見れる場面だと思います。(=トルストイの考えだけど)