(物語)
公爵令嬢マリヤは、マドモアゼル・ブリエンヌの助けで非常に巧みに話を進めて来ましたが、最後に来て彼が立ち上がった時、彼女は自分の関係の無い話に疲れてしまっていましたし、どうして自分にだけ人生の喜びが与えられる事がこれ程少ないのだろう。。という思いで頭が一杯になっていたので、急に放心したようになって、彼が立ち上がったのも気付かずに、ぼんやりと座っていました。
ニコライは彼女をみましたが、その放心したような様子に気付かないふりをしてブリエンヌに2言3言話し掛けてから、また公爵令嬢へ目を戻しました。
彼女はやはりじっと座っていました、そしてその柔和な顔には苦しみの色が浮かんでいました。
彼は急に彼女が可哀想になりました、そして、この顔に現れた憂いの原因が自分に有るかも知れぬ、とぼんやり考えました。
彼は何か楽しい事を言って、慰めてやりたくなりましたが、何を言ったら良いのか思いつきませんでした。
「失礼します、お嬢さん」と、彼は言いました。
彼女はハッと気がつき、真っ赤になって「あっ、失礼致しました。。」と、目が覚めたように彼女は言いました。
「もうお帰りですの、伯爵❓では、ごめんくださいませ❗️あら、お母様に差し上げる枕は❓」
「お待ち下さいまし、直ぐに持って参りますから。。」と、マドモアゼル・ブリエンヌは言って部屋を出て行きました。
2人は時々目を見交わしながら黙っていました。
「そうですねえ、お嬢さん」と、ついに寂しそうに笑いながら、ニコライは言いました。
「この間のような気がします。ボグチャーロヴォで貴女にお会いしたあの時から、どれ程の月日が流れ去った事でしょう。。あの頃はこんな不幸な時代は無いと思われましたがーーあの時代を戻す事が出来たら、僕はどんな犠牲も惜しまないでしょう。。でも、もう戻りません」
彼が話している間、公爵令嬢はきらきら光る目でじっと彼の目を見つめていました。
彼女は、自分に対する彼の感情を明かしてくれるはずの、その言葉の秘められた意味を読み取ろうと努めているようでした。
「ええ、そうですね。。でも、過ぎた事を惜しむ事はございませんわ、伯爵。私の乏しい理解ですけれど、貴方は今だって後々まで嬉しい思い出になるような生活をお送りになっておりますもの。だって貴方の今の自己犠牲の生活は。。」と、彼女は言いました。
「そのお褒めの言葉を、僕は受ける訳には参りません」と、彼は急いで遮りました。
「それどころか、僕は絶えず自責の念に駆られているのです。でも、こんな事は全く面白く無い不愉快な話です。」
そしてまた彼の目は、先程の乾いた冷たい表情に戻っていました。
しかし、公爵令嬢は既に彼の中に、彼女が知っており、そして愛して来たあの人間を見ていました、そして今はただその人間とだけ話していたのでした。
「貴方と。。そしてご家族の皆様とあんなに親しくさせていただいておりましたし、私の気持ちを迷惑とお取りにならないだろう。。と思っておりましたわ。でも、私の思い違いでした。」と、彼女は言いました、そして、彼女の声がふいに震えました。
「私は『何故』かわかりませんの、以前の貴方とはお人がお変わりになったようで。。」
「『何故』には数え切れない程の理由があるのですよ。貴女には感謝しております、お嬢さん。時々辛くなる事があります」と、彼は静かに言いました。
『そうなの、その為だったのね❗️』公爵令嬢マリヤの心の中で内部の声が言いました。
『そうだわ、私はこの人の中の、明るい、善良な、影の無い目だけを、美しい外貌だけを好きになったのでは無かったんだわ。この人の気高い、強い、自己犠牲の精神を感じ取ってたんだわ。そうなの、この人は今貧しいけど、私はお金持ち。。ただそれだけの為だったの。。そうだわ、もしこんな事が無かったら。。』ここで、彼の以前の優しさを思い出し、彼の善良そうな、寂しげな顔を見ながら、彼女はふいに彼の冷たさの原因を悟ったのでした。
「何故ですの、伯爵❓おっしゃって下さるわね❓おっしゃって下さらなければいけませんわ。」
彼は黙っていました。
「私にはわかりませんの、伯爵、貴方の『何故』が。私。。私正直に打ち明けますわ。貴方は何かの理由で以前の友情を私から奪ってしまおうとなさるのね。それは私には辛い事ですわ。」彼女の目には涙が滲んでいました。
「私の人生にはあまりに幸福が少なかったものですから、何を失うのも身を切られるように辛くて。。お許し下さいませ。では失礼します」彼女はふいに泣きだして部屋から出て行きました。
「お嬢さん❗️お願いです、お待ち下さい❗️」と、彼女を引きとめようとして、彼は叫びました。
彼女は振り向きました。。何秒か2人は黙って見つめ合いました、すると、遠い手の届かぬものが、ふいに、近い、手の届く、そうならねばならないものになっていたのでした。。
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(解説)
う〜〜ん。。
トルストイ、この2人の高尚な愛の感情を見事に歌い上げている場面ですね。。
そう、この2人はまさに『神の祝福を受けて』愛を成就させた、っていう感じがします。
あのね、私達が普通に思っている『結婚』のイメージって、なんか綺麗な女性と金持ちのイケメンさんが一緒になってどうだこうだっていうレベルなんですよね、所詮。
そういうのを完全に排斥した上で、この2人が結ばれたのだ、という2人悩みと葛藤とがね、美しく描かれていると思います。
トルストイの描く『愛』は本当に崇高ですね。。
では具体的に私の感じた所を書きます。
ニコライは、もう自分の家が没落してマリヤと自分とは釣り合わないし、世間も色々噂をするだろうからマリヤに迷惑をかけたくないのですね、それに自分の男としてのプライドもあるし。。
ニコライは、母親に勧められて訪問のお返しをして、挨拶だけで失礼しようとした時に、マリヤの柔和だけれど寂しそうな表情を見て取るのですよね。。
それは自分が原因かもしれない。。って思うのです。
でもね、この時点でニコライは、やっぱり、マリヤに愛を打ち分ける訳には行かないのですよね。
ニコライも男ですから世間体は気にするんですよね。
いよいよお暇しよう。。とその時に、公爵令嬢マリヤがロストフ夫人に渡そうと思っていた枕を持ってくるのを忘れた事に気づくのですね。
野次馬根性の強いブリエンヌは、この時は(お利口さんに)枕を探しに行く、と言って席を外してくれるんですね(❗️)
その時ニコライは、やっぱり自分がマリヤを幸せに出来ない事を、でも、自分の気持ちは最初にマリヤと会った時に戻りたいと思っている。。とそのように表現するのですね。
マリヤは、ニコライの男気、明朗さ、暖かさをちゃんと理解してるのです。
その言葉を聞いた時、マリヤはどうしても納得が行かなかったのですよね。
マリヤはその『納得できない』という気持ちを自分なりの言葉で訴えるのですね。
でもね、マリヤは、決して計算はしていなかったと思うのですよ。
マリヤは、それがニコライの生きる道なら、それは仕方がない。。これ以上のことを求めるのは彼が気の毒だ、という事だったのだと思います。
ニコライは、去ってゆく彼女を見た時、その数秒間で一生分の思いが頭の中を駆け巡ったと思うのです。
これ以上の気高い女性がこの世には存在する訳がない。。自分のような男の前に2度とこんな女性は現れて自分を好いてはくれないだろう。。そして、それはこの人をも一生孤独の中に押し込めてしまう事になるのだ、と。
その時、ニコライは決心するのですね。
お金の事は自分が働いてなんとかしよう、今、この人を抱きしめて上げなければ、この人と自分を裏切る事になるのだ、とね。
(追記)
この2人も決して順調には結ばれていないのですよね。
お互い、相手を傷つけたくない、迷惑をかけたくない、相手にはもっと良い人が現れるだろう。。って迷いながら、自分の本当に気持ちを探しながらやっぱり『この人しかいない、この人だって自分がいなければ幸せな人生では無いはずだ』って気づくのですよね。
この過程が、第1巻のとんでもないおぼっちゃまのニコライを一人の大人の男性として成長させているように見えるのですよね。
相手を尊敬すればこその成長だと思います。
公爵令嬢マリヤは、その位魅力的な女性として描かれています。