(物語)
19世紀初めのヨーロッパの諸事情の本質をなす根本的事実は、ヨーロッパ諸民族の集団の西から東へ、次いで東から西への軍事的な動きです。
この動きの発端は、西から東への移動でした。
西側の諸民族が、実際に彼らが成し遂げた、あのモスクワまでの軍事的な動きを完遂出来る為には、次の諸条件が必要でした。
①東側の戦闘諸国との衝突に堪えるだけの規模の戦闘集団を編成すること。
②一切の古い伝統や風習を捨てること。
③この軍事的な動きを遂行するに際して、自分の為にも、集団の全員の為にも、当然行われるはずの欺瞞や略奪や殺人行為を正当化できるような人間を、先頭に押し立てる事、です。
そしてフランス革命に始まって、規模の不十分な古い集団が崩壊し、古い風習や伝統が消え去り、新しい規模の集団と、新しい風習や伝統が1歩1歩作り上げられて行き、来るべき大きな動きの先頭に立って、行われる事の一切の責任を負うはずの人間が養成されて行くのです。
信念も、風習も、伝統も、家名も持たぬ、フランス人ですら無い男が、不思議としか思われないような偶然の重なり合いによって、フランスを波立てているあらゆる党派の間を泳ぎ抜け、どの党派にも寄せずに、顕著な地位へのし上がって行くのです。
仲間の無学と、競争相手の弱さと無気力と、嘘に迫真力を与える能弁と、視野の狭さから来る眩惑するような満々たる自信とが、この男を軍の首脳へと押し上げました。
イタリア軍の見事な編成と、敵軍の戦意の欠如と、子供っぽい無思慮な猪突と自己過信が、彼に軍人の名誉を与えさせました。
無数のいわゆる偶然が、至る所彼に付いて回りました、フランスの為政者達に嫌われた事が、彼には有利となりました。
運命によって定められた道を変えようとする彼の試みは、成功しませんでした。
即ち、ロシアへの勤務の希望は容れられませんでしたし、トルコへの転出もうまく行きませんでした。
イラリア戦闘の間、彼は何度か窮地に立たされましたが、その度に思いがけない救いが現れました。
彼の栄光を破る事が出来るはずのロシア軍も、様々な外交上の考慮から、彼が居る間はヨーロッパへ進出しませんでした。
彼は、イタリア遠征から戻ると、パリの政府が、そこに巻き込まれる者をすり減らし、消してしまわずには置かぬような、崩壊過程にある事を見出しました。
すると自ずから彼の為に、意味も理由もないアフリカ遠征という、この危険な状態からの逃げ道が現れました。
またしても例のいわゆる偶然が、彼に付いて回りました。
難攻不落を誇るマルタが砲火を交えず降伏し、極めてずさんな命令が成功を持って飾られました。
その後は一度も小舟をも通さなかった敵艦隊が、彼の全軍を通しました。
アフリカでは、ほとんど無防備の住民の上に暴逆の限りが尽くされました。
そしてその暴逆をほしいままにした人々、特にその指導者は、それが功奏であり、栄光であると思い込み、自らをシーザーやアレクサンドル大王に比しているのでした。
自分の為には何ものも悪と思わぬばかりか、それに不可解な超自然的な意味を与えて、自分のあらゆる犯罪を誇りとする、あの『栄光』と『偉大』の理想ーーこの男とそれを取り巻く人々の指導原理となるべきこの理想が、広大なアフリカで培われたのでした。
ペストも彼に取り付かない、残忍な捕虜虐殺も彼の罪にはなりませんでした。
理由の無い、卑怯な行為も彼の功績となり、またしても敵艦隊は彼を見逃しました。
数々の犯罪の成功によってすっかりのぼせ上がり、自分の役に対する下ごしらえが出来て、何の目的も無くパリに戻って来ると、1年前には彼を破滅させるかも知れなかった共和政府の腐敗が極限にまで達していて、党派色の無い新鮮な彼の存在が、今は彼の声価を高めるばかりとなったのでした。
彼は何のプランも持ちませんでした、しかし、各党派が彼に働きかけ、その陣営に引き込もうとしました。
彼1人が、イタリアとエジプトで培った栄光と偉大の理想と、自尊の狂気と嘘の迫真力を持つ彼だけが、これから行われようとする事を正当化する事が出来るのでした。
ーーーーー
(解説)
一砲兵士官に過ぎなかったコルシカ島の貴族出身(父はイタリア人で、ナポレオンが生まれる前年にコルシカ島はフランス領となる)のナポレオンの出世と転落までが、このチャプターと次のチャプターでトルストイの考察を交えながら記されています。
ここでは、フランス革命から、彼が軍人として成功を収めてゆく過程、そしてパリに戻った彼を待ち受けていた『偶然』が、彼に政権掌握を至らしめるまでの流れです。