(物語)
公爵令嬢マリヤは、彼の話を理解していましたし、共感を覚えていました。
が、しかし彼女が今見ていたのは、彼女の全ての関心を飲み尽くした別のものでしたーー彼女は、ナターシャとピエールの愛の幸福の可能性を見ていました。
そしてこの初めて彼女の頭に浮かんだ考えが、彼女の心を喜びに満たしていました。
深夜の3時になっていました。
ピエールは、話を終えました。
ナターシャは、恐らく彼が言い残したに違いない何ものかを、もっと読み取ろうとするように、生気に満ちたキラキラ光る目で、注意深くピエールを見守り続けていました。
ピエールは、恥じらいと幸福な戸惑いを覚えながら、話題を変える為に、さてどう言ったものかと、思案していました。
公爵令嬢マリヤは黙っていました。
夜の3時だという事や、もう寝る時間だということなど、誰の頭にも浮かびませんでした。
「不幸だ、苦しみだ、と人々は言います。」と、ピエールは言いました。
「だがもし、捕虜以前のお前のままで居たいか、それともこの全てを初めからやり直してみたいか❓と問われたとしたら、僕は喜んで、もう一度捕虜生活と馬の肉の方を取りますね。。踏み慣れた道から突き落とされたらーーそれで全てはお終いだ、と我々は考えます。ところが、そこから初めて新しい、良い道が始まっているのですよ。生命のある限り、幸福も有ります。前途にたくさん、たくさんあるのです、僕はこれを貴女に言いたいのです。」と、ナターシャを見ながら彼は言いました。
「そうですわ、そうですわ。あたしも初めからすっかりやり直す事が出来さえしたら、後は何も望まないでしょうね。。」と、ナターシャはまるで別な事に答えるように言いました。(※恐らく。。彼女はアンドレイを裏切った自分がもう一度(アンドレイと出会った後の)人生をやり直せたらそれで良い、と言っているのだろうと思う。)
「ええ。。その上何も。。」と、ナターシャは言いました。(※こんな自分が、新たな幸福は望めないと言った所か。)
ピエールは注意深く彼女を見つめました。
「違います、それは違う❗️」と、ピエールは叫びました。
「僕が生きていて、生きたいと思うのは僕の罪じゃない、貴女だって同じだ。」
ふいに、ナターシャは両手の上に額を落として泣き出しました。
「どうしたの❓ナターシャ❓」と、公爵令嬢マリヤは言いました。
「何でも無いの。お休みなさい、もう遅いわ。」と、彼女は涙の目でピエールに笑いかけました。
ピエールは立ち上がって、別れの挨拶を述べました。
公爵令嬢マリヤとナターシャは、いつものように寝室でピエールが話した事について少し語り合いました。
「じゃ、お休み、マリィ。ねえ、あたし時々不安になるのよ。あたし達、胸の奥の尊い感情を卑しめはしないか、と恐れるみたいに、あの方(アンドレイ公爵)の事を話し合わないようにしてるけど、こうしているうちにだんだん忘れて行くんじゃないかしら❓」
公爵令嬢マリヤは重い溜息をつきました、そしてこのため息でナターシャの言葉の正しい事を認めました。
「忘れるなんて事が出来るかしら❓」しかし、言葉では同意しないかのように、公爵令嬢は言いました。
「あたしは今すっかり話してしまって本当に良かったわ。辛かったし、苦しかったけれど、でも本当に良かったわ。。」と、ナターシャは言いました。
「彼(ピエール)は、本当にあの方(アンドレイ公爵)を愛していたのね、あたしにはそれがわかったの。だからあたし、あの方に話したのよ。。あの方に話して構わなかったかしら❓」と、ふいに顔を赤らめて彼女は聞きました。
「ピエールに❓ええ、構いませんとも❗️本当に心の美しいひとですもの。」と、公爵令嬢マリヤは言いました。
「ねえ、マリィ❓」と、ナターシャは、マリヤが久しく見なかった、いたずらっぽい微笑を浮かべて言いました。
「あの方(ピエール)は何だか清潔で、つやつやして、爽やかな感じになったわね。まるで湯浴み(ゆあみ)したみたい、わかる❓心の湯浴みよ、そうじゃ無い❓」
「そうね。。あの方は多くの物を勝ち得たのね。」と、公爵令嬢マリヤは答えました。
「わかるわ。。兄が誰よりもあの方を愛していた事が。。」と、公爵令嬢マリヤは言いました。
「そうね、あの方は彼とは違うタイプですもの。男の人は全く違うタイプが仲良くなるって言うけど、本当ね。2人は似たところがちっとも無いじゃ無い❓」
「でも、立派な方ね。」
「じゃ、お休み」と、ナターシャは言いました。
そして、マリヤの頭の中には、ナターシャのあのいたずらっぽい微笑がいつまでも残っていたのでした。。
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(解説)
はい。
ここも結構重要なメッセージを含んでいると思います。
まず、マリヤは、ピエールとナターシャの『将来的な愛の成就の可能性』を察知して、二人にお互い腹を割って自分の数奇な体験を話し合わせるのですね。。
ピエールは、捕虜になった経験から多くを学んだとはっきり言います。
そして、何よりも、自分が『ロシアの大貴族』としてのふさわしい❓生き方を外れてしまって、自分自身がそこからはみ出す前は、『ああ。。僕は、ここから転落したら、もうこの世間では生きてはいけない。。』と思っていたのですよね。
特に、エレンとの不幸な結婚を、なぜ彼がここまで引きずったのか、と言うと、当時の社会風潮からは『離婚は大貴族として世間体が悪い』と言う理由と、エレンに対する責任からですね。
でも、実際自分が枠からはみ出した途端に、『あ。。なんかスッキリしたな。。新しい世界が見えるぞ❗️』と、彼は気がついたのだと思います。
ピエールは、そのことをナターシャに理解して欲しかったのですね。
ナターシャは、ピエールのこの言葉に対して、アンドレイ公爵を裏切ったそれ以前に戻って、自分がそんな事をしなければ。。それをやり直したい、とちょっと的が外れた答えを返すのですね。
さらに、ナターシャは、『アンドレイ公爵を裏切った自分が、自分のこれ以上の幸福を望むべきでは無い』と言う思いが強いのですね、だから彼女は「それ以上は何も。。」と、ピエールに言うのですね。
ピエールは、それに対し、断固として反対します。
「(枠からはみ出してしまった)僕が生きたい、幸せになりたいって思うのは罪では無い、そうであるならば、貴女だってそうでしょう❓」と、ナターシャに、自分の人生をこれでお終いにしてはいけない、幸せを求めて生きて行こうじゃないか、それはアンドレイ公爵も望んでいる事ですよ❗️と優しくナターシャを励ますのですね。
だから、ナターシャはピエールの言葉に感激して涙を流すのです。
本当に、素晴らしい絆を感じますね、ピエールは本当に美しい心でナターシャに寄り添っていると思います。
そしてピエールが辞去した後、公爵令マリヤとナターシャは、こうしてアンドレイ公爵の事を、何か尊いもののように話題にしないでいると、いつの間にか彼は過去の中の美しい思い出の中に生きる人となるのだ。。。と思うのですね。。
失った愛する人への執着は確かに美しいけれど、人間には忘却という偉大な本能があり、それも神からの贈り物だ、とトルストイが言っている気がします。
(追記)
はい。投稿直前に記載しております。
ここは、トルストイの根っことなる宗教観『罪を犯した人間は許されるべき、そしてこの世で自らの幸福を追っても良いのだ』という『寛容の精神』が述べられていると思います。
トルストイは、罪を犯しても失敗をしても、人が立ち上がり新たな気持ちで自分の人生を切り開く事への『尊さ』を説いていると思います。
そして、その人が人生を終える時、犯した罪以上の徳を積んだのであれば、その人の人生は神様に愛され許されるのだ、という真理を述べていると思います。
その人がどのくらい幸福であったのか、についても過去に犯した失敗の数々よりも、人生に神の存在と喜びをより多く感じたのであれば、それは神に愛され祝福された人生なのだ、という事だと思います。
そして、『寛容の精神』は罪人をも立ち直れせるのだ、という事を強調している様に思います。
さらに、この『罪を犯した人間も、この世に生きながらえて幸福を追求する権利がある』という精神は、『源氏物語』に於いて紫式部が採った手法と同じだと思います。
この『寛容の精神』を桐壺帝の目を通して、光源氏と藤壺の宮の密通という大罪を見逃す事によって、源氏は大往生するまで実にいろんな人々に愛と恵みを与えています。
当時女性達は、経済的自立が不可能で高貴な男性の妻になって生きるしか無かったので、『一夫多妻制』は女性の生活を守るシステムだったのです。
しかし、当時の女性といえど、生身の女性ですからやはり『自分だけを愛して欲しい』という葛藤は非常に大きなものだったと推定出来ます。
源氏は、たくさんの女性達の面倒を見ながら、それぞれの女性の長所や愛すべき点を上手に引き出して、それぞれに自分なりの精一杯の愛情と恵みを何の惜しみもなく与えています。
源氏を巡る女性達も和やかに譲り合って生活する様が、時々の事件を挟んで情緒深く描かれています。
この2つの名作は、この精神故に人々の心を打ったと私は思います。