戦争と平和 第4巻・第4部(11)クトゥーゾフ、国民戦争の代表者と言う役目を終える。 | 気ままな日常を綴っています。

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(物語)

翌日、皇帝を迎えて、元帥の所で晩餐会晩餐会と舞踏会が催されました。

クトゥーゾフは勲一等ゲオルギイ勲章を授与され、皇帝から最高の敬意を示されましたが、元帥に対する皇帝の不満は誰もが知る所でした。

皇帝が礼儀を守り、まずその範を示したのでした。

しかし、老人が誤りを犯し、何の役にも立たぬ人間である事は、全ての人々が知っていました。

 

舞踏会でクトゥーゾフが、エカテリーナ女帝時代の古い習慣に従って、会場に姿を見せた皇帝の足下に、奪い取った軍旗を平伏させる事を命じた時、皇帝は不快そうに顔をしかめて、何やら言われました、何人かの者がその中に『老いた道化師』という言葉を聞きました。

 

クトゥーゾフに対する皇帝の不満がヴィルナでひときわ強くなったのは、クトゥーゾフが明らかに、引き続き行われようとしている戦争の意味を理解しようとしなかったか、あるいは理解出来なかった為でした。

翌朝、皇帝は参集した士官達に向かって、「諸君が救ったのはロシア一国ではない、諸君はヨーロッパを救ったのです。」と、言いましたが、その時既に一同は、戦争はまだ終わっていない事を悟ったのでした。

クトゥーゾフだけがそれを理解しようとはしませんでした。

そして、新しい戦争はロシアの状態を悪くし、ロシアの上に今輝いているこの最高の名誉を低める恐れがあるだけだ。。と、率直に自分の意見を述べたのでした。

彼は新たな徴兵の不可能を皇帝に説得しようと努め、住民達の困窮や、失敗の可能性などについて語りました。

 

このような考えの元帥が、切迫した戦争を妨げるブレーキとしか思われない事は当然でした。

この老人との衝突を避ける為に、ひとりでに解決策が見出されました、それはアウステルリッツでも採られ、この戦争の当初にバルクライに対しても採られた方法で、本人に告げずしてそっと、この立脚している権力の基盤をそっと抜き取り、それを皇帝自身に移す事でした。

 

その目的の下に、少しずつ司令部が改組されて行き、クトゥーゾフ司令部の実質的な力は完全に骨抜きにされ、皇帝の手にうつされたのでした。

全員が口を揃えて、元帥がめっきり弱って、病気勝ちになった。。と、大げさに言いふらしました。

後任者に地位を譲る為には、彼は病弱にならなければなりませんでした。

そして実際に、彼の健康は衰えて行きました。

 

クトゥーゾフがトルコから義勇軍の為にペテルブルグの税務監督署に出て来て、それから彼を必要としたまさにその時軍に、という具合に、自然に事が運ばれたと同じように、今クトゥーゾフの役目が終わると、自然に次の時代が求める新しい活動家が彼の地位に現れたのでした。

 

1812年の戦争は、ロシア人の心にとって大切な民族的意義の他に、もう1つヨーロッパ的意義を持たなければなりませんでした。

諸民族の西から東への移動の後には、当然今度は東から西への移動が続かなければなりませんでした、そしてこの新しい戦争の為には、クトゥーゾフとは違う気質と見解を持ち、違う意欲によって動かされる、新しい活動家が必要でした。

 

クトゥーゾフがロシアの救済と名誉の為に必要であったように、アレクサンドル1世は、諸民族の東から西への移動と、諸民族間の国境の復活の為に必要な人物だったのです。

ヨーロッパとか勢力の均衡とか、ナポレオンとかがどういう意味を持つのか、クトゥーゾフにはわかりませんでした。

彼はそれを理解出来なかったのです。

 

ロシア民族の代表者には、敵が撃滅され、ロシアが解放されて、最高の栄誉に立たされた後は、ロシア人としてもうする事が何も無かったのでした。

国民戦争の代表者には、死ぬ事以外に、何も残されていなかったのです。

そして彼は死にました。。

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(解説)

はい。歴史は詳しくありません。

この部分を読む限りの感想となります。

 

一連のボロジノの会戦において、最も大事だったことは、ナポレオンのロシア侵攻に対して敵が撃滅され、ロシアが解放される、という事だったと記載されています。

当時、最強だったフランスの大軍が頭脳明晰な総司令官ナポレオンの指令の下にロシアに侵攻して来たのですから、ロシアはこの時、他国よりも自国の独立と自治を守る事が最優先されたという事です。

 

そこにちょうど登場したのが、トルコから義勇軍の為にペテルブルグの税務監督署に出て来たクトゥーゾフ だったのです。

彼は生粋のロシア人であり、ロシアの国土を守る軍を率いる総司令官はドイツ人などの外国人ではなく(実際、ドイツ人のバルクライが総司令官になりロシア将軍達の反発を受けている)、彼しかいない、と求められるままにボロジノの会戦の総司令官に抜擢されたのですね。

そして、クトゥーゾフ は、まさにその役目にぴったりの将軍だった訳で、如何にしたら、ロシアの国土からフランス軍を追い出し、国を守るか、という方策には長けていたと記載されています。

『積極的に戦う』事ではなく『消極的に守る』ということに徹し、その事によって軍隊を、そして国を守った人なのだ、というトルストイの考察が書かれています。

 

また、ナポレオンは生き残ってフランスに帰った訳ですから、ヨーロッパとしては、今後の課題が残った。。という事になったのですね。

この戦争の後処理として、それを解決するのは、アレクサンドル1世であった。。という考察が続いています。

こうして、クトゥーゾフ の時代は終わり、老齢の彼は翌年に他界した、と書かれています。