戦争と平和 第4巻・第2部(1)一連の1812年の戦役の重要な事件クラースナヤ・バフラ背面の側面 | 気ままな日常を綴っています。

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(物語)

ボロジノ会戦、敵軍によるモスクワ占領、そしてモスクワ炎上と続いた後の、1812年の戦役の最も重要な事件と歴史家達が認めているのは、リャザン街道からカルーガ街道へ、さらにタルーチノ陣地へのロシア軍の転進ーークラースナヤ・バフラ背面の側面行軍と世に言われている作戦です。

歴史家達は、この偉業の栄誉を様々な人物に担わせ、本来、これが誰の計画になるものか、議論が分かれています。

外国の大歴史家達が、フランスの歴史家達でさえ、この側面行軍を語りながら、ロシアの司令官達の優れた才能を認めています。

 

しかし何故に軍事評論家達、またそれに続いてあらゆる人達が、この側面行軍が、ある人物の極めて深い策謀から生まれた、ロシアを救い、ナポレオンを破滅させた作戦であると考えるのかーー全く理解に苦しむ所です。

 

①第1に、この移動の深慮と天才性がどこに有るのか理解し難いのです、なぜなら、軍の最良の位置は(敵から攻撃を受けぬ場合)なるべく糧秣の豊かな地点である事を推量するのは、さして知恵を絞る必要は無いからです。

1812年に、モスクワ撤退後の軍の最も有利な位置が、カルーガ街道に有った事は、誰でも苦もなく推察出来たはずです。

 

②第2に、最も理解に苦しむのは、そもそもこの作戦の何処に、ロシア軍の救いとフランス軍の破滅を、歴史家達は見ているのか❓という事です。

なぜならこの側面行軍は、それに先行し、付随し、持続した他の諸々の状況の下では、ロシア軍を破滅させ、フランス軍を救うものであったかも知れないからでした。

よしんば、この移動が行われた時から、ロシア軍の状態が好転し出したとしても、それは決して、この移動がその原因であったという証明にはならないのです、そこに他の諸原因が重ならなかったら、この側面行軍は少しの利益ももたらさなかったばかりか、ロシア軍を破滅させていたかも知れないのです。

例えば、もし、モスクワが焼けなかったらどうであったか❓ナポレオンが何もせずに居るような事をしなかったら❓クラースナヤ・バフラ付近で、ベニグセンやバルクライの進言を入れて、もしロシア軍が戦闘を挑んでいたら❓もし、フランス軍がペテルブルグへの道を取っていたらどうであったか❓。。これらすべての仮定の下では、側面行軍の救いは破滅に転じていたかも知れなかったのです。

 

③第3に、これが最も理解に苦しむ所ですが、歴史を研究している人々が、側面行軍はいかなる個人の功績でも有り得ない事、誰もそれを予見した者は無かった事、この転進はフィーリへの後退と全く同じように、実際には誰の目にも全くその全貌は見えず、一歩一歩時々刻々に、事件の連鎖の形で、極めて多彩な条件の数限り無い累積の中から流れ出て来たもので、それが成就され、過去のものとなった時に、初めてその全貌が明らかになった事、こうした個々の事実に故意に目を向けようとしない事が大切なのです。

 

フィーリの作戦会議におけるロシア軍首脳部の支配的な考え方は、当然の事ながら、真っ直ぐに後退する事、すなわちニージェゴロド街道を後退する事でした。

会議における大多数の意見がこの考えを支持した事、さらに、会議後に総司令官と糧秣部長ランスコイの間に交わされた夢いな会話がそれを証明しています。

ランスコイは、軍の糧秣は主としてトゥーラ県とカルーガ県のオカ河に沿う地域に集積されており、冬に向かって渡河輸送は困難となろう、と総司令官に報告しました。

 

これがそれまで最も自然と思われていたニージニイへの直路から方向を回転する必要の第一の兆候でした。

軍は道をやや南に取り、少しでも糧秣に近く、リャザン街道を進みました。

その後フランス軍が動かず、しかもロシア軍を見失ってしまった事と、トゥーラの養馬場を守らなければならぬという配慮と、何よりも糧秣集積所に接近した方が有利だという考えが、軍をしてさらに南のトゥーラ街道へ転進させたのでした。

 

バフラ河対岸を薄氷を踏む思いの側面行軍で突破すると、ロシア軍の指揮官達はポドーリスク付近に留まろうと考えたのであって、タルーチノ陣地の事など念頭に有りませんでした。

ところが、無数の状況の流動と、ロシア軍を見失っていたフランス軍が再び現れた事と、戦闘計画と、主としてカルーガに糧秣が豊富にある事が、ロシア軍の進路をさらに南へ曲げ、さらにタルーチノへ転進させたのでした。

 

モスクワの放棄がいつ決定されたのは❓という問いに答える事が出来ないのと全く同じように、果たして誰の決定によってタルーチノへの転進が行われたのか❓という問題にも答える事が出来ないのです。

無数の微分子の力の総和の結果として、軍が既にタルーチノへ来てしまってから初めて、人々は、これを望んでいたのだし、予てから予見していたのだ、と思い込もうとし始めたのです。

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(解説)

ここは、ボロジノ会戦後、モスクワが放棄され、モスクワの大火災が起きた後のロシア軍の行軍の記載と、結果としてその航路が採られた結果、ロシア軍は壊滅せずに、ロシア軍を見失ってしまったフランス軍の破滅を導いた、という『事実』に」関するトルストイ先生の考察の部分ですね。(クラースナヤ・バフラ背面の側面行軍における考察)

 

ここでも、第3巻におけるボロジノの会戦における考察同様に、トルストイは、この戦いで歴史上有名な将軍やナポレオンの意思や行動ではなく、全体としての流れとして、戦闘を捉えるべきで、おまけに『神の意志』すら加味して考察しなければならない、と考察しています。

このクラースナヤ・バフラ背面の一連の側面行動は、フランス軍から攻撃を受けないロシア軍が、糧秣が豊かな地域に沿って行軍を重ねた、通常だったら誰でもそう思うような一連の出来事によって行われたに過ぎないと述べています。

そして、この行軍を続けるにあたって、ロシアには厳しい冬が忍び寄って来ていた訳ですね。

ロシアの地理に疎い(研究は十分にしていただろうけれど)フランス軍の危機を、もうこの時点ではクトゥーゾフのみならず、軍全体が感じていたでしょう。。