(物語)
もう1度扉が向こうから押されました。
人間の限界を超えた最後の努力もむなしく、扉は左右に音も無く開きました。
『それ』が入って来ました、そしてそれが『死』でした。
アンドレイ公爵は死にました。
ところが死んだ途端に、アンドレイ公爵は自分が眠っている事を思い出しました、そして死んだまさにその瞬間に、力を振り絞って目を覚ましました。
『そうだ、あれは死だった、俺は死んだーー途端に目を覚ました。そうだ、『死』は目覚めなのだ。』と、ふいに彼の心の中に閃きました。
そしてこれまで知り得ぬものを隠していたとばりが、彼の心の目の前に開かれました。
彼はそれまで縛られていた身内の力が解放されたような気がして、それ以来彼を去らなかったあの不思議な軽さを感じました。
彼が冷たい汗をかいて目を覚まし、ソファの上でわずかに身体を動かすと、ナターシャが側に寄って、どうなさったの❓と尋ねました。
彼はそれに答えませんでした、そして彼女の言葉がわからずに、不思議そうな目で彼女を見ました。
これが、公爵令嬢マリヤが到着の2日前に起きた事でした。
その日以来、医者の話では、身体を衰弱させる熱病が悪い方向に向かい始めたという事でしたが、ナターシャは医者の言葉に関心を持ちませんでした。
彼女自身の目は、それよりも確かな、この恐ろしい精神的徴候を見ていたのでした。
その日からアンドレイ公爵は、夢からの目覚めと同時に、生からの目覚めが始まったのでした。
この比較的緩慢な目覚めには、恐ろしいものや鋭いものは何も有りませんでした。
彼の最後の数日は、時間が普通に単調に過ぎて行きました。
公爵令嬢マリヤも、ナターシャも、彼の枕元に付き添って、その事を感じていました。
2人は泣きもしませんでしたし、怯えもしませんでした。
そして、最後の数日は、自分でもそれを感じながら、もう彼をでは無く(彼はもう居ませんでした、もう彼女達から遠く去ってしまっていたのでした)、彼についての最も近い思い出ーー彼の身体の世話をしていたのでした。
2人のこの気持ちは極めて強かったので、死の外見的な恐ろしい面が2人の心には作用しなかったし、2人は自分の悲しみをわざと突つく必要は無い、と思っていました。
自分達の理解している事が、言葉で表せぬ事を、2人は感じていたのでした。
彼女達2人共、彼が静かにゆっくりと、彼女達の側を離れて、次第次第に深く、どこかあちらの方へ沈んで行くのを見ていました。
そして、それはそうあるべきもので、それが良い事である事も知っていたのでした。
彼の懺悔式と聖餐式が行われました。
家中の者が最後の別れに来ました。
息子が連れて来られた時、彼は息子の額に唇を当ててから、顔をそらしました、それは息子が憐れで見るのが辛かったからでは無く(公爵令嬢マリヤとナターシャはそれがわかっていました)、ただそうする事が自分に求められているからだ、と彼は思っただけでした。
それでも、息子に祝福を与えるように。。と言われると、彼は求められた勤めを果たし、あと何かしなければならぬ事は❓と尋ねるように、皆の顔を見回しました。
霊魂が肉体を離れる臨終のけいれんが来た時、公爵令嬢マリヤとナターシャがその場に付き添っていました。
「息を引き取ったのね❓」彼の身体が動かなくなり、じっと2人の前に横たわったまま、次第に冷たくなりだしてから何分か経って、マリヤが言いました。
ナターシャは側へ寄り、生命の無い目を見ると、急いでそれをつぶらせてやりました。
彼女は目をつぶらせると、その瞼には接吻しないで、彼との最も大切な思い出に唇を寄せました。
『どこへ行ってしまったのかしら❓今頃どこに居るのかしら❓』
綺麗に清められ、死装束に包まれた身体が寝棺に納められてテーブルの上に安置されると、家中のものが別れに来て、むせび泣きが室内を満たしました。
ニコールシカは、小さな心を引き裂いた苦しい疑惑の為に泣きました。
伯爵夫人とソーニャは、ナターシャに対する同情と、彼がもう居ないのだ、という悲しさの為に泣きました。
老伯爵は、もうじき自分もこの恐ろしい一歩を踏み出す事になるのだと感じ、それを思って泣きました。
ナターシャと公爵令嬢マリヤもやはり泣きましたが、それは個人的な悲しさの為では無く、目の前で行われた単純で厳粛な死の神秘を、心の目で見届けた為に、敬虔な感動に胸を塞がれて泣いたのでした。。
ーーーーー
(解説)
アンドレイ公爵の夢の中の話の続きです。
ついに扉の中へ『死』が入って来ました、そしてアンドレイ公爵は死にました。
しかし、死んだ途端に、彼は『新しい愛』に目覚めました。
何物にも執着の無い、解き放たれた感覚を彼は感じました。
これが、公爵令嬢マリヤが到着した2日前に起きた出来事だったのです。
その日からアンドレイ公爵は、夢からの目覚めと同時に、生からの目覚め=真理への覚醒が始まったのでした。
同時に、彼の身体の方は、傷口が化膿し、菌が身体中を回り熱にうなされているのでした。
この比較的緩慢な目覚めには、恐ろしいものや鋭いものは何も有りませんでした。
彼の最後の数日は、時間が普通に単調に過ぎて行きました。
公爵令嬢マリヤも、ナターシャも、彼の枕元に付き添って、その事を感じていました。
そして、それはそうあるべきもので、それが良い事である事も知っていたのでした。
そして、アンドレイ公爵は、長い肉体の苦しみの末に亡くなりました。
ナターシャと公爵令嬢マリヤもやはり泣きましたが、それは個人的な悲しさの為では無く、目の前で行われた単純で厳粛な死の神秘を、心の目で見届けた為に、敬虔な感動に胸を塞がれて泣いたのでした。。
(追記)
極めて世俗的な父親の元で期待を背負って成長し、野心を持って仕事に励み、そして仕事にも愛にも挫折したアンドレイ公爵の死の場面は、非常に詳細にトルストイの思想が乗せられていると思いました。
自分の理解力が付いて行っては無いと思いますが、極めて世俗的欲望が強かったアンドレイ公爵という人の生き様、そして死に様は、実は人間一般が普通に願う生き様であり、そしてその結末としての死に様では無いのか、と思います。
最も神に遠かったアンドレイ公爵の死への目覚めだからこそ、この目覚めの神々しさが際立っている様に思いました。