戦争と平和 第3巻・第3部(32−2)アンドレイ公爵、『無償の愛』に目覚める。 | 気ままな日常を綴っています。

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(物語)

その声は、絶え間なく律動的に『イ・ピチイ・ピチイ・ピチイ』次に『イ・チイ・チイ』そしてまた『イ・ピチイ・ピチイ』それからまた『イ・チイ・チイ』と繰り返していました、それと同時に、アンドレイ公爵は、この囁くような音の調子に合わせて自分の頭の真上に細い松葉か付け木で出来た何か奇妙な楼閣がせり上がって行くのを感じました。

彼は(ひどく苦しい難儀な事ではありましたが)、このせり上がって行く楼閣が崩れないように、下から懸命に平均を保っていなければならない事を感じていました。

しかし、やはりそれは崩れ落ちました、そしてまた単調に囁く音の調子に合わせてゆっくりせり上がって行きました。

『伸びる❗️伸びる❗️すっかり伸び切ったのに、まだ伸びて行く』と、アンドレイ公爵は独り言を言いました。

『それにしてもどうしてあんなに伸びてせり上がって行くのだ、やめろ、頼む、やめてくれ』と、アンドレイ公爵は切なそうに誰かに頼みました。

するとふいにまた、思想と感情が異常な鮮明さと力強さで浮かび出て来ました。

 

そうだ、愛だ』と、彼はまた少しの曇りも無い心で考えました。

『でもそれは、何かの代償を求めて、あるいは何かの理由で愛するような、そういう愛では無い。俺が死に瀕しながら憎むべき敵を見て、尚且つ愛した時に初めて経験したあの愛だ。あの時俺は、魂の本質そのものであるような、そしてその対象を必要としないような、そういう愛の感情を覚えていた。隣人を愛し、敵を愛する、全てを愛する事はーーあらゆる姿で現れる神を神を愛する事だ。親しい人間を愛する事は人間の愛であるが、しかし敵を愛する事は神の愛を持ってしか出来ぬ。だからこそ、あの男を愛している事を感じた時、俺は言い知れぬ喜びを覚えたのだ。』

 

『あの男はどうなっただろう❓生きているだろうか。。人間の愛で愛していれば、愛から憎悪に移る事がある。だが、神の愛が変わる事はあり得ない。これは魂の本質なのだ。だが、俺はこれまでの生涯にどれ程多くの人を憎んで来た事か。しかし俺が誰よりも強く愛し、誰よりも強く憎んだのは、彼女だった。。』

そして彼はありありとナターシャを思い浮かべました。

しかし彼は、これまでのように、自分に喜びを与えるあの美しい魅力だけを持つ彼女の姿だけを思い描いたのではありませんでした。

今初めて、彼は彼女の心を自分の心に思い浮かべたのでした。

 

すると彼には、彼女の感情も、苦悩も、羞恥も、悔恨も、理解されたのでした。

彼は今初めて、自分の拒絶の残酷さの全てを理解し、彼女を破談にした事の残酷さを知りました。

『ああ。。もう1度だけ彼女に会う事が出来たら。。1度で良い。。あの目を見つめながら、言ってやる事が出来たら。。」

イ・ピチイ・ピチイ・ピチイ、イ・チイ・チイ。。。ぶーん、ハエがぶつかりました。。すると、彼の注意は現実と幻覚の別の世界へ移ってしまいました。

 

その世界では何か妙な事が起こっていました。

相変わらずこの世界では、楼閣が崩れもせずに、絶えずせり上がり、絶えず何やらがずんずん伸びて行き、やはり赤い輪を持つ蝋燭が燃えており、扉口の辺りにシャツのスフィンクスがうずくまっていましたが、そこへもう1つ何かギイと軋み、爽やかな風の匂いと共に、あたら良いスフィンクスがすーっと扉の前に立ちました。

そしてそのスフィンクスの頭に、彼が今考えていたナターシャの、蒼白い顔と、きらきら光る目が付いていました。

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(解説)

前半の楼閣が迫り上がるアンドレイ公爵の妄想は、おそらく、彼の思考がものすごいスピードで回転し、増殖している事を比喩しているのではないか。。と思います。

彼は、死の淵で、神の啓示を絶え間なく受けているという様子ではないのか、と個人的には思っています。

 

そして、アンドレイ公爵は、もともと『無神論者』として描かれていましたが、彼の内面には、こうした『無償の愛』即ち、なんの代償も求めない愛を理解する資質が有ったのだ、という事を示していると思います。

彼は、死の床に有って、自分の内面の、そのような資質に気付かされたのだ、と思いますね。

そう思う事によって、アンドレイ公爵が突如として真実の愛に目覚めた、という事が納得出来ます。

 

彼は、具体的に、一番愛し憎んだのはナターシャだと自覚しています。

そうして、彼女への想いを馳せるのですね。

アンドレイはナターシャに対して、自分サイドの考え方からしかナターシャを見ていなかったといみじくも言っていますね。

(本文:しかし彼は、これまでのように、自分に喜びを与えるあの美しい魅力だけを持つ彼女の姿だけを思い描いたのではありませんでした。)

そうですね、ナターシャはアンドレイと過ごしていても、アンドレイが外国に行って手紙をくれても、全く安心もできていませんし、成長していませんでしたものね。

むしろ自分の悪い所が引き出されているような感じで、心理的にも不安定でしたものね。

『これ』なんだと思いますよ。

 

ああ。。自分の例ですけれど、『あなたの悪い所はね。』と毎日言われていたら、絶対に成長しませんね。

愛されているという自信だけが、自分の欠点を克服出来るのですね。

相手の欠点が目についても『それを愛する』ことによってのみ、その欠点は克服出来るような気がします。

このような愛し方が出来る人間は、概ね尊敬できる人が多いと思います。

それが分かるからこそ、また、欠点は克服される努力がなされるのだと思います。

『そういう愛』をアンドレイは気がついたのでは無いか、と思いますね。(本文:すると彼には、彼女の感情も、苦悩も、羞恥も、悔恨も、理解されたのでした。)

今まで彼は、内心、ちょっとオツムの足りないナターシャをどこかで冷ややかに眺めていたと思いますよ。リーザ の時もそうでしたけれど。

 

アンドレイ公爵は、このような無償の愛、相手の欠点をも受け入れる愛に気付いて、もう1度ナターシャに会いたいと思います。

あの時ナターシャを孤独にした自分の責任を認識し、ナターシャに改めて、『寂しい思いをさせて悪かった、今回の事は私が悪かったのです、私は貴方の全てを愛しています。。」と言えたらな。。と思います。

その時、彼の前にナターシャが現れるのでした。。