戦争と平和 第3巻・第3部(31−2)ナターシャ、アンドレイ公爵に会わなければならないと思う。 | 気ままな日常を綴っています。

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(物語)

ナターシャは、長い間室内の気配と外から聞こえてくる音に耳を澄ましながら、身じろぎもせずに臥せていました。

やがて伯爵夫人がナターシャを呼びました、ナターシャは返事をしませんでした。

「眠ったようですね、ママ。」と、ソーニャがそっと答えました。

伯爵夫人は少ししてから、もう1度呼びました、しかし今度はもう誰もそれに答えませんでした。

 

それから間も無くナターシャは、母のなだらかな寝息を聞きました。

ナターシャは、小さな裸の片足が夜具の下からこぼれて、床に冷たく凍えていましたが、それでも身動きしませんでした。

どこかの隙間でコオロギが鳴き出しました。

遠くで雄鶏がトキを作り、近くでそれに答えました。

居酒屋の騒ぎが静まり、副官のうめき声だけが聞こえていました。

ナターシャは身体を起こしました。

 

「ソーニャ、眠っているの❓ママ❓」と、彼女は小声で呼びました、返事はありませんでした。

ナターシャは、そろそろと用心深く起き上がり、十字を切ると、小さなしなやかな足の裏で冷たい汚い床をそっと踏みました。床板が軋みました。

彼女は素早く足を動かして、つつと子猫のように数歩走ると、扉の冷たい把手を掴みました。

彼女は、何か重いものが、鈍い音を立てて、規則正しく家中の壁を叩いているような気がしました。

それは、不安と恐怖と愛の為に、張り裂けそうになった彼女の心臓が、激しく鳴っていたのでした。

 

彼女は扉を開けると、敷居をまたいで、入口の湿った冷たい土間へ降りました。

ぞくっとする冷たさが、彼女を爽やかにしました。

彼女は足探りに土間に眠っている人の身体をまたいで、アンドレイ公爵の寝ている小屋の扉を開けました。

小屋の中は暗く、奥の寝台の上に、何かが横たわっていて、その側のベンチの上に大きな蝋燭が1本燃え尽きようとしていました。

 

今朝、アンドレイ公爵が負傷して、一行の中に居る事を聞かされた時から、ナターシャは既に彼に会わなければならぬ、と心に決めていました。

どうして会わなければならぬのか、彼女にはわかりませんでしたが、しかしこの対面が苦しいものになる事はわかっていました。

だからこそ、それが必要な事なのだ、と彼女は固く信じていました。

その日1日、彼女は夜になったら彼に会うのだ、という希望だけで生きていました。

ところが今、その瞬間が来てみると、どんな姿を見い出すであろうか、という恐怖が彼女を襲いました。

 

どんな悲惨な姿に変わり果てているのかしら❓元の彼から何が残っているのだろう❓あの絶え間なくうめき続けている副官、彼もあんな風かしら❓そうに違いない。

彼女の想像の中で、彼はあのうめき声そのもののような姿に見えていました。

奥の隅にぼんやりした塊を見て、夜具の下に立てた膝を肩と思い違いをした時、彼女は何か恐ろしい格好に変わり果てた身体を想像して、ギョッとして立ち止まりました。

しかし、逆らう事の出来ぬ力が、彼女を前に引き寄せました。

 

彼女は用心深く1歩、また1歩と踏み出して、小さな部屋の中央まで来ました。

聖像の下のベンチに別の男が寝ていました(それはチモーヒンでした)。

そして床に誰かもう2人の男が寝ていました(これは軍医と侍僕でした)。

チモーヒンは、足の傷の疼きに苦しめられて、眠らずに居たので、白い肌着にジャケットを羽織り、ナイトキャップを被った娘の異様な出現に、大きく目を見張っていました。

「何かね、何の用です❓」という侍僕のびっくりした寝ぼけた声は、奥の隅に横たわっているものの方へ早く行こうとするナターシャの足を少し鈍らせたに過ぎませんでした。

その身体が、人間とも思われぬどれほど異形のものであろうと、彼女はそれを見なければなりませんでした。

その時、燃え尽きかけていた蝋燭の茸形の蝋の固まりが溶け落ちて、両手を夜具の上に出して横たわっている、いつも見てきたと同じアンドレイ公爵を、彼女ははっきりと見ました。

 

彼はいつもとほとんど変わりありませんでした。

ただ、熱で燃えるような顔の色と、深い感動をたたえて彼女に注がれているきらきら輝く目と、シャツのはだけた襟元から見えている子供のような弱々しい首が、えも言われぬ清らかな幼な子のような様子を、彼に与えていました。

しかし、これは彼女がこれまで1度もアンドレイ公爵に見た事が無いものでした。

彼女は側に寄ると、素早い、しなやかな、若々しい動作でひざまずきました。

彼は、静かに微笑して手をさしのべました。。

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(解説)

ナターシャは、重傷を負ったアンドレイ公爵が一行の中に居ると聞かされた時から、どうしてもアンドレイ公爵に会っておかなければならない。。と思うのですね。

彼女は、伯爵夫人と一緒に寝る事を拒み、扉側の乾草の上に準備された夜具に入り、皆が寝静まるのを待ちます。

ようやく、みんなが寝静まった時、彼女はそっと抜け出し、アンドレイ公爵が休んでいる小屋に行くのですね。

 

彼女は、アンドレイ公爵の容態を誰からも聞かされていません。

彼女の想像の中では、あの副官の痛みを訴える叫び声と相まって、アンドレイ公爵は悲惨な姿に変わり果てているだろう。。と思い込むのですね。

しかし、だからこそ、彼女はアンドレイ公爵に会わなくてはならないと思うのですね。

 

あのー。これですね。

おそらく、この時の彼女の中では『自分はアンドレイ公爵を本当に愛していたのか❓』を確認したいのだ、と思いますね。

アナトーリ と恋に落ちてしまう前の彼女はね、『自分がアンドレイ公爵から本当に愛されているのか❓』がむしろ彼女にとっては重要だったのですよね。

でも今は、アナトーリ と駆け落ちしようとまでした自分は、一体何だったのか❓アンドレイ公爵は彼女にとって何だったのか❓アンドレイ公爵と口約束の婚約をしていた時、自分は幸福感を感じていたのか❓安心感は有ったのか❓そう言った疑問がね、アナトーリ との駆け落ちが失敗してアンドレイ公爵とも破局した後の彼女には付きまとっていたのだと思います。

だから、今は、むしろ、アンドレイ公爵がどうだったのか、という事よりも自分の気持ちはどうだったのか❓自分はただ、身分の高い教養もある男性の妻の座に憧れていただけでは無いのか。。。それを確認したいのだと思います。

 

だからこそ、アンドレイ公爵がもし変わり果てた姿であったとしても、彼女は会わなければならない、と思ったのだと思いますね。

変わり果てた姿を見て、自分がまるで化け物を見るかのようにゾッとして逃げ出すのか、それとも自分は彼に手を差し伸べて接吻するのか。。。それを確認しに行っているのだと思います。

うまく言えませんけれど。。

 

そして、アンドレイ公爵の姿をようやく彼女は見ます。

彼女は『許し』を請うかのように彼の元に跪きます。

アンドレイの方は輝く穏やかな目でじっと彼女を見つめるのですね。。

この時の二人の心情についてはきっと次のチャプターが述べてくれるでしょう。