(物語)
ピエールは、自分の意図(=ナポレオンの暗殺)を決行するまでは、自分もフランス語を知っている事を明らかにするべきではない、と腹のなかで決めていたので、フランス兵が入って来たら直ぐに隠れるつもりでした。
ところが、フランス兵が入って来ても、ピエールは扉の側を離れませんでした。。抑え難い好奇心が彼を引き留めたのでした。
彼らは2人でした。。1人は長身で美丈夫の士官で、もう1人は兵士か従卒らしく鈍重そうな表情をしていました。
士官は杖をつき、少し足を引きずりながら、先に入って来ました、5・6歩入って来ると、この家で良いと一人決めしたように立ち止まると、指揮官らしい大きな声で馬を入れるように命じました。
「こんにちは、皆さん❗️」と、彼はニコニコ笑って、辺りを見回しながら言いました。
誰も返事をしませんでした。
「貴方がご主人ですかな❓」と、士官はゲラシムに言いました。
「宿舎ですよ。フランス人は陽気な連中だよ。わからん男だな❗️むすっとしやがって❗️まあいい、喧嘩はよそうや、おじいさん。」と、彼は胆をつぶして声も出せずにいるゲラシムの肩を、ぽんと叩きながら言い足しました。
「なんだ❗️ここにフランス語がわかる奴がおらんのか❓」と、彼は辺りを見回し、ピエールと目が合うと、こう言い足しました。
士官はまたゲラシムに顔を戻すと、部屋を見せてくれるようにゲラシムに求めました。
「いない、旦那様ーーわからない。。」と、ゲラシムは判りやすくしようと努めながら言いました。
フランスの士官は『何を言っているのか、わからない』という風に両手を広げて見せると、少しびっこを引きながらピエールの立っている扉の方へ歩き出しました。
ピエールは隠れようとしましたが、その時半開きの台所の扉の陰からピストルを手にしたマカール・アレクセーエヴィチがぬっと顔を出したのを見ました。
マカールは狂人のほくそ笑みを漏らしながら、フランスの士官を睨むと、ピストルを上げて狙いを付けました。
「突っ込めえ❗️」と、ピストルの引き金に指を掛け、酔いどれが叫んだ瞬間、ピエールは酔いどれに踊り掛かりました。
ピエールがピストルを掴んで銃口を上に向けた途端に、マカールの指は引き金を強く抑えました。
そして轟然と銃声が響き渡り、硝煙が辺りを覆いました。
フランスの士官は真っ青になって、玄関の方へ駆け戻りました。
フランス語がわかる事を明かすまい、という決意を忘れて、ピエールはピストルを奪い取り、それを投げ捨てると、士官の側へ駆け寄ってフランス語で話しかけました。
「お怪我はありませんでしたか❓」と、彼は言いました。
「無いようですね、しかし今のは近かったな。。」と、壁をえぐっている弾痕を指しながら彼は言いました。
「あれは何者です❓」と、ピエールを険しく睨み、士官は言いました。
「ああ。。私は本当に失望しました。こんな事が起こってしまって。。」と、ピエールは自分の使命をすっかり忘れて早口に言いました。「これは不幸な狂人で、自分でした事が自分でもわかっていないのです。」
ピエールは、この酔いどれの狂人を罰しないように、フランス語で士官に説得を続けました。
フランス士官は顔を曇らせたまま、黙って聞いていましたが、やがてふいに笑顔をピエールに向けました、その美しい顔に感動的な柔和な表情が現われ、彼は手を差し伸べて握手を求めました。
「貴方は私の生命を救ってくれました❗️貴方はフランス人です❗️」と、彼は言いました。
フランス人にとって、この結論は疑いの無いものでした、偉大な行為を行う事が出来るのはフランス人だけであり、第13軽騎兵連隊の大尉である彼ムッシュー・ランバールの生命を救った事は、最も偉大なる行為でした。
しかしピエールは、士官をがっかりさせる必要を考えました。
「私はロシア人ですよ。」と、ピエールは急いで言いました。
「しっしっし、それは他の人に言ってください。同胞にお会い出来てこんなに嬉しい事はありません。さあて❗️この男をどうしたものでしょうな❓」と、もうピエールを仲間扱いにして、彼は言いました。
ピエールはもう一度、マカール・アレクセーエヴィチが何者であるかを説明し、彼らの来る直前に、充塡されたピストルを持って逃げ出し、奪い取る暇が無かったのだ、と言って、彼の行為を見逃してくれるように頼みました。
「貴方は、私の生命を救ってくれた、貴方はフランス人だ。その貴方が彼を許せとおっしゃるのか❓よろしい、許しましょう。」と、フランス士官は早口に力強く言ってのけると、生命の恩人としてフランス人に昇格させたピエールの腕を取って、一緒に部屋の方へと歩き出しました。
庭に居た兵士達は、銃声を聞きつけ、何事だと、犯人を射殺する構えを見せて、どやどやと玄関に飛び込んで来ました。
しかし、士官はそれを制しました。兵士達は出て行きました。
その間にいち早く台所を覗いて来た従卒が、士官に報告しました。
「大尉どの、台所にはスープと羊の焼肉がございました。運ばせましょうか❓」と、彼は言いました。
「よし、それからワインもな。」と士官は言いました。
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(解説)
とうとうピエールの隠れ家にも、フランス兵士達が宿舎を求めてやって来ました、従卒を従えた長身で美丈夫の士官でした。
フランス士官は、フランス語で宿舎にしたいと言っているようですが、ゲラシム達はフランス語を話せません。
士官はフランス語が話せる者は居ないかと探しますが、ピエールは、自分の意図(=ナポレオン暗殺)を遂行するまでは自分の身分も名前も、フランス語が話せる事も隠しておきたいのですね。
ところが、その時半開きの台所の扉の陰からピストルを手にしたマカール・アレクセーエヴィチがぬっと顔を出し、狂人のほくそ笑みを漏らしながら、フランスの士官を睨むと、ピストルを上げて狙いを付けます。
すかさずピエールはこの酔いどれ=マカール・アレクセーエヴィチに踊り掛かリ、ピストルを掴んで銃口を上に向けたので、フランス士官は命拾いをします。
ピエールは、ボロジノの戦いで、貴族という身分に甘んじて無為に贅沢をして来た自分に対する嫌悪感を跳ね返したいのですね、それ故に全ヨーロッパの不幸の原因であるナポレオンを自分の命をかけても暗殺しようと思っていた人なのです。
特に、恩人の書斎で暮らすようになったこの2日間はそればかりを考えていた訳です。
でも、いくら、『フランス人の』士官だと言っても、ピエールの体は自発的に彼の命を救う方向に動いてしまったのです。
ピエールは、やっぱり無意識下では『平和主義』なのですね。
そこをトルストイはちょっと注目して欲しいがっていると思います。
この事件をきっかけに、フランス士官はピエールに対して『生命の恩人』として、ピエールはフランス人だ。と彼としては最大の賞賛を与えます。
しかし、さすがのピエールもこれには閉口して「私はロシア人です。」と言います。
それでも、この士官は喜んでピエールの手を取って感謝の意を示し、ピエールがマカールを許して欲しい、という言葉にも喜んで従います。
その間に、従卒が台所を覗き、食事の支度を勧めます。
どうやらピエールとフランス士官ランバールは、奇遇にも食事を共にするという事になりそうです。