戦争と平和 第3巻・第3部(2)ボロジノの会戦後なぜロシア軍は後退し、モスクワを明け渡したのか( | 気ままな日常を綴っています。

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(物語)

ヨーロッパの12カ国の兵力がロシアに侵入しました。

ロシア軍と住民は、衝突を避けながら、スモーレンスクへ、さらにボロジノへ後退しました。

フランス軍は、次第に惰性を増しながら最終目的地モスクワに急進しました。

その惰力は、落下する物体が地面に近づくにつれて速度を増すように、目的地に進むに連れて益々増大して行きました。

 

後方は、憎悪に燃えた飢えた敷地が数1000露里もあり、前方は目的地まであと数10露里を残すばかりでした。

ナポレオン軍の全ての兵士達がそれを感じていました、そして侵入軍は益々加速される惰力だけでひとりでに突き進んで行ったのでした。

 

一方、ロシア軍の方は、後退を重ねるにつれて、敵に対する憤りの気持ちが益々激しく燃え盛って行きました。

ボロジノ付近で衝突が起きました。(※ボロジノの会戦)

どちらも崩壊しませんでしたが、ロシア軍は衝突の直接の結果として必然的に後退しました。

ロシア軍はさらに120露里ーーモスクワの後方まで後退しました。

フランス軍は、モスクワまで達し、そこで停止し、その後5週間、1度の戦闘もありませんでした。

つまり、フランス軍は動けなかったのです、致命傷を受けた野獣が多量の出血に弱りながら、彼らはモスクワに留まり、何もしようともしませんでした。

 

そして突然、フランス軍は後退を開始しました。

彼らはカルーガ街道に殺到し、マロヤロスラヴ付近でロシア軍とぶつかりながらも、一度も重大な決戦を行わずに、益々速度を速めながら、スモーレンスクへ後退し、スモーレンスクからヴィルナへ、ベレジナへ、さらにその先へと後退して行きました。

 

8月26日夕暮れにはクトゥーゾフも、全ロシア軍も、ボロジノの会戦は勝ったと思い込んでいました。

クトゥーゾフ は、そのように皇帝に書き送っています。

クトゥーゾフ は、敵の息の根を止める為に、新たな戦闘の準備を命じました。

ところが、その晩から翌日にかけて、軍の半数が失われたという未曾有の損害についての報告が続々と入って来始めました。。その結果、新たな会戦が物理的に不可能であることが、判ったのでした。

つまり、未だ報告の総合も、負傷者の収容も、担架の補充も、戦死者の確認も、戦死した指揮者達の後任の任命も一切行われておらず、兵達も十分な食事も睡眠もとっていない、という状態では、戦闘を行う訳には行かなかったのでした。

 

しかもそれと同時に、早くも会戦後の翌朝には、フランス軍はもうひとりでにロシア軍に向かって動き出しました。

クトゥーゾフ は、翌日攻撃を掛ける事を望んでいましたし、全軍もそれを望んでいました。

しかし、攻撃する事は不可能でした。

一手後退しない訳にも行きませんでしたし、さらにまた一手と後退せざるを得ませんでした。

そしてついに9月1日、ーー軍がモスクワの手前まで来た時ーー全軍の士気は旺盛だったにもかかわらず、物理的力関係は、軍にモスクワの後方へ退く事を要求したのでした。

かくして軍は、もう一手、最後の後退を行い、モスクワを敵に明け渡したのでした。

 

書斎で地図を前にして、これこれの戦闘には兵をこう動かしああ動かすなどと、いろいろと想を練るように、司令官達が戦争全般や局地戦闘の作戦計画を作戦するものだ、という考えに慣れている人々には、クトゥーゾフ の指揮が理解出来ないでしょう。。

このような考えに慣れている人々は、総司令官の行動は、常に様々な不可避な条件の中で行われるものだ、という事を知らないのです。

総司令官は、我々が事件を考察する際に常に想定するような、ある条件は『ここから始まった』と言うような条件の中には、絶対に置かれていません、総司令官は常に動いている一連の事態の中に置かれています。

そして、この連鎖的に続いて行く事件の刻み目の1つ1つの瞬間に、総司令官は複雑極まる策動や、陰謀や、権力や心労などの中心に置かれて、数限りなく提示される、時には矛盾し合うような様々な問題に、絶えず返答を与えなければならないのです。

 

クトゥーゾフ は、フィーリのはるか手前で軍をカルーガ街道へ向けるべきであったし、しかもその案を誰かが進言までしているのに。。と軍事専門家達は大真面目に分析しています。

しかし、様々な事務処理、そこへペテルブルグから『モスクワ放棄など許されぬ』と言う皇帝の親書まで届けられている状態の中で判断をしなければなりません。

さらに、クトゥーゾフ の失脚を策している者が、混乱させるような進言をしたでしょう。。

およそ総司令官たる者の行動に、こうした避け得ぬ諸条件を理解出来ない人々は、例えばフィーリにおける軍の状況を我々に示して、総司令官は9月1日にモスクワ放棄か防衛かの問題を『全く自由に』決定出来たはずだ、と推定しています。

しかし、この(モスクワを放棄するか防衛するかの)問題は、フィーリまでに至る一連の(フランス軍による)ロシア侵攻の状況で刻一刻と状況が形成されて行く過程で、次第に決定されつつあったのでした。

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(解説)

ここも、ロシア軍がボロジノの会戦でフランス軍を相当追い詰めながらも、モスクワの後方へ後退せざるを得なかったのは、状況的にいた仕方がなかった事だ、と言うような事が述べられていると思います。

また、侵攻側のフランス軍も、ボロジノの戦いで既に士気を失いかけ、勢いと惰性でモスクワまで突き進んだものの、新たにロシア軍を攻撃する余裕は全くなく、5週間モスクワに留まったものの、(講和も思うようになされず、寒さも到来しているので)やむなくモスクワから後退して元来た道を後退せざるを得なかった。。と言うような説明が記載されています。

 

ここも、第3巻においては、何度か同じような説明がなされている部分だと思います。