(物語)
死体や不具にされた人々が累々と横たわる戦場を巡視し、これらの人々を眺めながら、彼がフランス兵1名にロシア兵何名が該当するかを数え、自分を欺きながら、フランス兵1人にロシア兵5名が該当した事に喜びの理由を見出したのは、この日に限った事ではありませんでした。
5万の死骸が累々と横たわっていたから、『戦場は荘厳であった』と、彼がパリへ書き送ったのは、この日だけのことでは有りませんでした。
セント・ヘレナ島においても、余暇を自分が樹立した偉業の叙述に捧げるつもりだ、とうそぶき、孤独の中で彼は次のように書いているのです。
ーーー
『ロシア戦争は、近代における最も有名な戦争となるべきはずであった。なぜなら、それは、堅実な良識と真の利益の為の戦争で有り、万人の平和と安全の為の戦争であったからだ、それは純粋に平和愛の保守的な戦争であった。
それは偉大な目的の為で有り、偶然の異変に終止符を打ち、平和を生み出す為出会った。
新しい展望が開かれ、万人の安寧と幸福に満たされた新しい営みが開始されたはずで有り、ヨーロッパの体制はその基礎が固められ、その制度の制定を残すばかりとなっていたはずである。
この偉大な諸問題が余にとって解決され、どこにも不安が無かったら、余も自分の会議と自分の神聖同盟を持ったはずである。
あれは余の考察の剽窃(ひょうせつ)である。
偉大な皇帝達のこの会議において、余らは各自の利害を家庭的に審議し、書記と主人のように、円満に諸民族との振合いを考えたはずである。(※ウイーン会議のことかい❓)
かくして早晩、ヨーロッパは実際に同一の民族の構成する所となり、万人が、どこへ旅行しようと、常に共通の祖国に居る事になったであろう。
全ての河川が万人の為の水路となり、海が共有となり、大規模な常備軍が諸皇帝の親衛隊だけに縮小される等々の案は、余の言明していた所である。
偉大な、強力な、栄光の祖国フランスへ帰還するや、余はフランスの国境の宣言し、今後一切の戦争は防衛戦争で有り、一切の新たな領土拡張はーー反民族的であると宣言するはずであった。
余は、王子と帝国の統治に参加せしめるつもりであったし、余の独裁政治は終わり、彼の立憲政治が始まるはずであった。
パリは世界の首都となり、フランス人は全民族の羨望の的となっていたであろうに❗️。。
さらに余の余暇と余生は、皇后と共に、王子の皇帝修行の間、真の農村の夫婦のように自ら馬を御して、順次に国の隅々を訪ね歩き、苦痛を聞き、不正を排し、国の至る所に知識を広め、美徳を施す事に捧げられるはずであった。。。』
ーーー
諸民族の死刑執行人という、自由の無い、悲しい役割を神によって定められた彼は、自分の行為の目的は諸民族の幸福で有り、自分は数100万人の人々の運命を指導し、権力という手段によって善徳を行う事が出来るのだ、と自分に言い聞かせていたのです(❗️)。
彼はロシア戦争について、さらに次のように書いています。
ーーー
『ヴィスラ河を渡った40万人のうち、半数はオーストリア人、プロイセン人、サクソニア人、ポーランド人、バワリア人、ヴィルテンベルヒ人、メクレンブルク人、スペイン人、イタリア人、ナポリ人などであった。
皇帝の軍は、実を言えば、3分の1がオランダ人、ベルギー人、ライン河両岸の住人、ピエモント人、スイス人、ジュネーヴ人、トスカナ人、ローマ人、第32師団、ブレーメン、ハンブルグなどの住民達で、フランス語を解すのは14万人に満たなかった。
ロシア遠征で、実際にフランスが消耗した兵力はせいぜい5万人である。ロシア軍はヴィルナからモスクワへの退却の間の諸戦闘で、フランス軍の4倍の兵力を失っている。
モスクワの大火は、森の中で寒さと飢えで死んだ者を含めて、10万人のロシア人を殺している。
最後にモスクワからオーデル河までの移動の間に、ロシア軍も苛烈な気候の被害を被り、ヴィルナに到着した時はわずか5万に細り、カリーシでは1万8000以下という惨めな状態だったのである。』
ーーー
彼は自分の意思でロシアとの戦争が行われたと思い込んでおり、事件の凄惨さに心がひるまなかったのです。
彼は大胆にも、この戦争の責任を一身に引き受けていたし、その曇った理性は、数10万人の死者達の中にゲッセン人やバワリア人よりフランス人が少なかったという事に、弁明を見出していたのでした。。
ーーーーー
(解説)
ナポレオン、セント・ヘレナ島へ流されるまでの経緯。
ナポレオンのロシア遠征は大失敗に終わりました。この失敗を機にナポレオンの力は弱まり、各国がナポレオン打倒に動き出すことになるのです。
1813年、ナポレオンとヨーロッパ諸国との間で ライプツィヒの戦い がおこりました。別名 諸国民戦争 とも呼ばれます。この戦いで、ナポレオンは プロイセン・ロシア・オーストリアの連合軍に敗北します。
1813年10月16日にライプチヒの戦いに敗れたナポレオンを追って、ロシア軍・プロイセン軍はパリを目指し、1814年3月末、ついにパリは陥落します。
パリではすでに変わり身の早い政治家たちが動き、ナポレオン退位、ブルボン家の王位復活に向けて策動が進んでいました。
1814年4月2日、元老院は皇帝ナポレオンの退位を宣言し、6日にはルイ18世の即位を決定、王政復古となった。ナポレオンは、4月4日に条件として地中海のエルバ島の所有(支配権)と歳費の支給を同盟国側から出させることを認められて、自ら退位に同意して流刑地エルバ島へ流されました。
ナポレオン後のヨーロッパ国際秩序の再建のために始まったウイーン会議は一向に進展せず、フランス国内ではルイ18世の王政復古で戻ってきた亡命貴族が幅をきかし、ブルジョワの中には革命の成果が帳消しにされてしまうのではないか、農民の中には革命前の身分制度が復活するのではないかという不安が広がり、またナポレオンのもとで戦った兵士は解雇されて生活に困り、ナポレオン復活を待望する気運が強まって行きました。
1815年2月26日、ナポレオンは千名足らずの兵をつれてエルバ島のポルト-フェラヨを出発、そこからわずか20日間でパリに駆けつけ、道々、農民や労働者が「皇帝万歳」と歓呼して迎えました。(ナポレオンの復位)
しかし、ナポレオン軍はワーテルローの戦いでイギリス・オランダ・プロイセンの連合軍に敗れ、1814年7月3日、パリは開城、ナポレオンは再び敗れ去った。ナポレオンはアメリカに亡命するつもりであったがイギリス軍に捕らえられ、南半球の大西洋にある孤島セントヘレナ島に流されることとなりナポレオンは結局、この島で生涯を終えることになりました。
(1821年5月5日、ガンのため死去)
※ナポレオンは対外遠征を繰り返し、各地を支配しました。そして支配を受けた人たちはフランスへの反発を強め、反対に自分たちの 民族性 を強く意識するようになりました。
ーーー
(雑感)
ま。セント・ヘレナ島でのナポレオンの書簡ですが、全く反省が見られませんね。
彼は数10万人以上もの人を犠牲にしながらも、なお、自分の正当性と優秀性を世に訴えようとしていたのですね。
ウイーン会議の内容についても『自分が言っていた事の模倣』とか言ってますし、(実際はナポレオンから逃げて別の愛人を作った)皇后と王子への未練もタラタラです。
さらに、驚くべき事は、フランス軍で犠牲になった兵士達の中にフランス人よりも他国人の方が多かったんだから、フランス人の犠牲はそんなに無いでしょう❓みたいなこじつけにしか見えない論理です。
さらに、自分のやった征服戦争が、『自分を中心としてまとまる諸民族の幸福の為』というわけ分からない事まで記載しています。
ナポレオンって、こんな男だったのだなあ〜と感慨深く読みました(笑)