(物語)
父の葬式が終わると、公爵令嬢マリヤは自分の部屋に閉じこもっていました。
扉口に小間使いが来て、アルバートゥイチが(最初に)出発の指示を仰ぎに来た事を取り次ぎましたが、何処にも行きたく無いから、このままそっとしておいて欲しいと言いました。
マリヤは、1度死んだらもう戻らぬ事と、父の病気の間ずっと抱いていながら、今の今まで気付かなかった自分の心の醜さを考えていました。
彼女は祈りたかったのですが、祈る事が出来ませんでした。
今、置かれているような心の状態では、神に顔を向ける勇気がありませんでした。
太陽が家の向こう側へ落ちて、夕日の斜光が開け放された窓から差し込み、マリヤが見ていたクッションの一部に当たりました。
彼女は無意識に身を起こし、髪を直すと、ソファを離れて窓辺に寄り、雲は無いが風の有る夕暮れの涼気とを、思わず胸一杯吸い込みました。
『そうだわ、もう夕景色に心ゆくまで見惚れていいんだわ❗️お父様はもう居ないし、誰も邪魔する者は居ないわ。』と、彼女は自分に言い聞かせました、そして椅子に身を沈めて窓の手すりに頭を伏せました。
庭の方からマドモアゼル・ブリエンヌが、優しい声でそっと彼女の名を呼び、頭に接吻しました。
彼女はマリヤの側に寄ると、ほっと溜息をついて接吻し、すぐに泣き出しました。
マリヤは彼女の顔を見やりました。
これまでの彼女との衝突や、彼女に対する嫉妬などが、マリヤには思い出されました、そして、老公爵が近頃はブリエンヌに対する態度をガラリの変えて、顔を見るのも嫌った事や、だから、自分が心の中で彼女をなじっていた非難が不当な物だった事なども、マリヤの思い出に蘇りました。
『それに、お父様の死を望んでいた私に、人を非難する資格などあろうか。。』と、彼女はふと思いました。
マリヤは、自分から遠ざけられているとは言え、自分の支配下に置かれて他人の中に暮らしているマドモアゼル・ブリエンヌの立場をしみじみと思い返しました。すると、マドモアゼル・ブリエンヌが可哀想に思われて来ました。
彼女は、優しい問い掛けるような目で見守りながら、手を差し伸べました。
ブリエンヌは、公爵令嬢に、この悲しみを分かつ事を許して欲しいと言いました、そして、これまでの一切の誤解は、この大きな悲しみの前に消えてしまうはずだ、と綿々と訴え続けました。
公爵令嬢は聞いていましたが、その言葉の意味が分からないで、時々彼女の顔へ目をやり、その声の音色に聞き入っていました。
「貴女のお立場は、私などの倍も恐ろしゅうございますわ、お嬢様。お嬢様への愛から、これだけは私、どうしても申し上げなければ。。アルバートゥイチがいらっしゃいましたでしょう❓そして、お嬢様と出発の相談をなさいましたわね❓と、彼女は聞きました。
マリヤは答えませんでした。
こんな時に、何処へ誰が行かなければならないのか、彼女には分からなかったのでした。
「ねえ、ご存知❓マリイ。。私達、今とても危険なのよ、フランス軍にすっかり囲まれてしまったのよ、ここを立ち退くのは危険ですわ。もし出掛けたら、きっと途中で捕まえられますわ、そしたらどんな目に遭わされるか。。」と、ブリエンヌは言いました。
「ああ。。私はもう。。何がどうなっても構わないのよ。どんな事が有っても、お父様のお側を去ろうとは思わないわ。。アルバートゥイチ が出発の事を何か言ったようですけれど。。彼と話して下さらない❓私、もう何も出来ないし、したくないから。。」
「彼とはとうに話しましたよ。でも私、今はもうここに留まった方が良いように思いますね。だって、途中で兵士達か暴動を起こしている農民達の手に捕まったら恐ろしい事ですわ。。」と、ブリエンヌはハンドバッグからフランス軍のラモー将軍の布告を取り出してマリヤに渡しました。
その布告には、住民達はフランス軍により当然の保護が与えられるから、家を立ち退かぬように、と記されていました。
「この将軍にお願いしたら良いんじゃないかしら。きっとお嬢様には十分な敬意が払われますわ。」と、ブリエンヌは言いました。
公爵令嬢マリヤは、その布告を読みました、すると、みるみる涙の無い慟哭がその顔を歪めました。
「誰を通してこんなものを貰いましたの❓」と、彼女は言いました。
「恐らく、名前で私がフランス人である事がわかったのでしょうね。」と赤くなりながらマドモアゼル・ブリエンヌは言いました。
マリヤは、そのビラを手にしたまま立ち上がると、蒼白な顔をして部屋を出て、元のアンドレイ公爵の書斎へ入って行きました。
「ドゥニャーシャ、アルバートゥイチでも、ドローヌシカでも、誰でも良いから呼んで下さい、それからアマーリヤ・カルローヴナ(=ブリエンヌ)に、私の部屋に来ないように言いなさい❗️」
「立ち退かねば❗️一刻も早く❗️」公爵令嬢マリヤは、フランス軍の支配下に取り残されるかも知れぬと言う考えに慄然としまがらこう呟き続けるのでした。。
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(解説)
ボグチャーロヴォの農民達の動きを全く知らないマリヤは、父・老公爵が亡くなった悲しみに浸っています。
アルバートゥイチが、「いつモスクワに発たれるのですか❓」と聞いても、彼女は、父が亡くなったばかりなのに、そんなにいそいそ父が亡くなった場所を離れる事は出来ないのですね。
そこへ、マドモアゼル・ブリエンヌがマリヤにお悔やみを言いに来ます。
そして、当地のボグチャーロヴォは、フランス軍が守ってくれるから、今ここを離れるのは危険じゃ無いのか、きっとラモー将軍が庇護してくれるだろうから、お願いしましょう。。と、ラモー将軍の布告をマリヤに見せます。
マリヤは、それを見るなり、ボグチャーロヴォが既にフランス軍の息が掛かっている事を知ります。
ロシア貴族の彼女が、フランスの将軍に助けを求めるなど、どうして出来ようか。。とマリヤは、急いでこの地を離れなければならない事を認識するのでした。。
(追記)
ここのマリヤの心情については、平和な時代に生きる私たちにとってはちょっと理解し難いかも知れません。
私は、「戦争と平和」を完読してから改めて追記の部分のみを書いておりますが、おそらくトルストイ先生は、ここで公爵令嬢マリヤが『真の愛国心』によって、ボグチャーロヴォを脱出しなければならない、と強く感じた、という事を描いていると思います。
ロシアの貴族たるものが、ナポレオンに従って、自分の領地の農作物を分けたり、ナポレオンと共にこの自分のロシアの領地を収めるという事態になる事は我慢が出来なかったのですね、そんな事態に陥ろうものなら死んだ方がマシだ❣️という強い『愛国心(トルストイが言う所の真の正しい正義に基づいた愛国心)』が、一瞬にマリヤの心の中に広がった。。という事だと思います。
これは、モスクワを捨てて逃げて行った上流階級達の行動と軌を一にしており、ロシアは、まさにこの『真の愛国心』によって救われたのだ。。というトルストイの考察につながります。(一言で言えば、ロシア貴族たるもの、ナポレオンには隷従しないぞ、という誇り)
さらに、蛇足かも知れませんが、この後、公爵令嬢マリヤはニコライ・ロストフにこの窮状を助けられています。
ニコライは、敵にロシア貴族の誇りを捨てて命乞いをする、という事は絶対に出来ない一本気な男性です。
その時、同じロシア貴族としての誇りと愛国心をマリヤと共有した、即ち、まさに運命的な出会いをしたのだ、と言う『示唆』がトルストイによってなされた、と見る事が出来ると思います、先の事を記載して申し訳ありませんが。
だから、トルストイとしては、全く身分違いのソーニャではなく、公爵令嬢マリヤとニコライを結びつける構想が元々出来上がっていたと思われます。
これは、アンドレイ公爵を最初『既婚者、しかも妻は社交界の華で、ナターシャとそっくり同じような女性』を伴って登場させ、後にナターシャとの恋によって、真実の愛に目覚めさせて行く。。と言う構想が最初から有ったのと同じですね。
(最初の妻リーザの運命は、もしナターシャが何事もなく無事にアンドレイ公爵と結婚していた場合に辿ったであろう運命をあらかじめ読者に見せていたのですね。)
この物語の緻密さを改めて実感しております。
素晴らしい名作で、そしてそれを描けた若いトルストイの人間性の高さが窺われると思います。