(物語)
アンナ・パーヴロヴナのサロンで、さらにワシーリィ公爵は熱弁を振るいました。
「ロシアで最も老いぼれの将軍クトゥーゾフ伯爵が、国会の会議に連なるなんて、どだい滑稽ですよ、馬にも乗る事が出来ず、会議では居眠りばかりして、素行の甚だ良くない人間を、総司令官に任命するなんて事が出来る者でしょうか❗️ブカレストでたっぷりその正体を晒した(注1)じゃありませんか❗️将軍としての彼の才能を云々するつもりはありませんがね、このような重大な時に、めくら(※原文ママ)のもうろく爺を総司令官になんて考えられますかね❓」
誰も反対しませんでした。
7月14日には、この意見は完全に正しいものでした。
ところが、7月29日にクトゥーゾフは公爵に叙されました。
公爵の叙位は、彼を引退させたいと言う意味にも受け取られましたーーだから、ワシーリィ公爵の判断は依然として正しさを失わなかった訳でしたが、今はもう彼もそんな事を軽々しく発言しよう。。とは思いませんでした。
ところが8月8日になると、サルトゥイコフ、アラクチェーエフ 、ヴャジミチノフ、ロプーヒン及びコチュペイの5元帥から成る重臣会議が招集されました。
会議は、敗戦は統帥の混乱のせいであると認め、5元帥共にクトゥーゾフに対する皇帝のご不興は知っていたものの、クトゥーゾフを総司令官に任命する事を進言しました、そしてその日のうちにクトゥーゾフが全軍及び軍が占めている全地域の最高司令官に任命されました。
8月9日にワシーリィ公爵は、アンナ・パーヴロヴナのサロンで『才長けた人物』と顔を合わせました。
実は、この『才長けた人物』は、貴族女学校の主事に任命されたい下心からアンナのサロンに出入りしていた人でした。
クトゥーゾフ 公爵が元帥に任命された事を手の平を返すように喜ぶワシーリィ公爵に対して、『才長けた人物』は、「でも、彼はめくら(※原文ママ)のもうろく爺ではないのですか❓」と、ワシーリィ公爵に先日の自分の言葉を思い出させるように言いました。
(これはアンナの客間では、ワシーリィ公爵に対しても、クトゥーゾフ の総司令官任命を喜んだアンナ・パーヴロヴナに対しても失礼に当たる事でしたが、彼は我慢出来なかったのでした。)
「そんな馬鹿な。。彼は十分に見えますよ。」と、ワシーリィ公爵は咳払いをしながら持ち前の低い声で口早に言いました。
「私が喜んでいるのは、陛下が彼に全軍と、全地域に対する完全な権力を与えられた事ですよ。これはかつて1人の総司令官も持った事の無い権力ですからな。これこそもう1人の専制君主ですよ。」と、ワシーリィ公爵は勝ち誇ったような微笑と共に結びました。
「ぜひ、しっかりやって欲しいわ❗️」と、アンナ・パーヴロヴナも言いました。
「こうなった上は、ただただクトゥーゾフ 公爵が実権を握って、車のやの間に棒を挟むような真似を誰にも許さないように、と祈るだけですわ。。」と、アンナ・パーヴロヴナは言いました。
この『誰にも』が『誰』の意味か、ワシーリィ公爵はすぐに悟りました、彼は声を潜めて言いました。
「確かな筋から聞いたのですが、クトゥーゾフ は絶対条件として、皇嗣であられる皇弟殿下が軍に留まられぬ事、と言う事を申し出られたそうですな。ご存知かな❓彼が陛下に申し上げた言葉を。」
そう言って、ワシーリィ公爵はクトゥーゾフ が皇帝に言ったと言う『仮に殿下が間違いを犯されても、私は罰する事が出来ませんし、手柄を立てられても、賞を取らせる訳にも参りません』と言う言葉を披露しました。
「おお❗️実に聡明な人物ですよ、クトゥーゾフ 公爵は。私はかねがね存じておりましたがな。」
「しかし、お話によりますと。。」と、未だ宮廷の節度というものをわきまえぬ『才長けた人物』は言いました。
「その御立派な公爵は、皇帝ご自身(※ワシーリィ公爵は『皇弟殿下』とファジーに表現しています。)に軍に来られぬ事と言うのを絶対条件に挙げられたそうですね❗️」
彼がこれを言った途端、ワシーリィ公爵とアンナ・パーヴロヴナはさっと彼から顔を背けました。
そして、この『才長けた人物』の馬鹿さ加減にため息をつきながら憂鬱そうに顔を見合わせるのでした。。。
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(解説)
ワシーリィ公爵は、さらに67歳のクトゥーゾフを彼の将軍としての才能は置いておいて。。とはいうものの『めくら(※原文ママ)のもうろく爺』とまで揶揄します。
この時点では、ワシーリィ公爵の言動に反対する者は一人もいませんでした。
ところが、先のバグラチオン公爵のアラクチェーエフ への、バルクライ・ド・トリーに対する苦情の手紙や世論などから、どうも今回の戦争がうまく行かないのは統帥の混乱のせいであると重臣会議が認め、7月29日にクトゥーゾフは公爵に叙され、8月8日にクトゥーゾフが全軍及び軍が占めている全地域の最高司令官に任命されました。
その翌日の8月9日にワシーリィ公爵は、アンナ・パーヴロヴナのサロンで『才長けた人物』と顔を合わせます。
ワシーリィ公爵は、クトゥーゾフが公爵に叙され、最高司令官に任命されたと知ると手の平を返したように喜びます。
前日のワシーリィ公爵のクトゥーゾフ 批判の言葉をよく覚えていた『才長けた人物』は、「この間はめくら(※原文ママ)のもうろく爺って言っていたじゃないですか❓」と皮肉ります。
これは、クトゥーゾフ の任命を喜ぶワシーリィ公爵ばかりでなくアンナに対しても失礼にあたる言葉でした。
この人は、貴族女学校の仕事が欲しくてアンナのサロンに来ていたのに、ちょっと常識が無い人なのですね。
さらに、このサロンでは、クトゥーゾフ は任命を受ける際に『皇嗣であられる皇弟殿下が軍に留まられぬ事』という絶対条件を付けた、という話が出ます。
しかし、これはちょっと話の本質をカモフラージュしている訳で、クトゥーゾフ は、アウステルリッツの会戦でも下に記載している対トルコ戦でも、アレクサンドル皇帝に不適切な指示を出され、それに物申すしてるんですね。
(だから、クトゥーゾフ はアレクサンドル皇帝の不興を買っていたのですね。)
アウステルリッツでは、要所のブラッツェン高地を味方軍が来るまで待って守りたかったのに、皇帝から「出撃」命令を出されて、結局この要所をフランス軍に明け渡してしまった。。という経緯がありました。(「戦争と平和」第1巻)
だから、この話はクトゥーゾフ が『アレクサンドル皇帝が軍に留まらない事』を『絶対条件』として出した、というのが真実なのですね。。
でも、それを婉曲して話すのが社交界のマナーで、そういう繊細な宮廷の節度というものをわきまえぬ『才長けた人物』は、ズバリ、クトゥーゾフ は皇帝に軍に留まるな、を絶対条件としたんですよ、と言って周囲から呆れられるのですね。
(注1)ワシーリィ公爵がクトゥーゾフがブカレストでその正体を晒した、と言う背景。➡︎これは、ウイキペディアと他の方のブログ記事(古今統帥者列伝)から該当部分を引用させていただいております。
1806年にはじまる対トルコ戦(1806年-1812年)では、クトゥーゾフ はモルダビア軍の総司令官として再び軍功を挙げ、ロシアに有利なブカレスト条約の締結に貢献した。
『ブカレストに進軍したクトゥーゾフは、夏の酷暑のあいだ戦闘を避けたが、9月、南の斜面上流から、トルコ人を取り囲む河を横断した。彼は正面切っての戦闘で多数の死傷者を出すより、むしろ冬のあいだの包囲戦に熱心に取り組んだ。サンクトペテルブルグで皇帝アレクサンダーは「ぐすぐずした大将」の躊躇いとブカレスト条約(1812年5月)に先立つ和平交渉の遅れに対して苛立ち、腹を立てた。しかしクトゥーゾフの軍隊と外交手腕はトルコをしてフランスとの連合から分断することに成功していた。彼はモラヴィアの北に進み、1812年末にはナポレオンの行動を掣肘する一因を成すに至った。』