(物語)
ある晩、ロストフ老伯爵夫人がナイト・キャップにジャケットという姿で、小さな小さな敷物の上でひざまづき、夜の祈りを唱えていると、やはりジャケット姿で、髪に紙のクリップを付けたままナターシャが駆け込んで来ました。
伯爵夫人は振り向いて眉を潜めました。
祈りに安らぎを得た彼女の気分はすっかり壊されてしまいました。
顔を赤くして息を弾ませたナターシャは、祈りを唱えている母を見ると、駆け込んだままの姿勢で立ち止まり、思わずペロリと舌を出しました。
母が祈りを続けているのを見ると、彼女は爪先立ちでベッドに駆け寄り、急いで小さな足と足を擦り合わせて室内靴を脱ぐと、伯爵夫人が自分の柩となるのではないか、と恐れていたその臥床へ飛び乗りました。
伯爵夫人は祈りを終えて、厳しい顔をしてベッドの側に来ました、ところが、ナターシャが毛布の下に顔を隠しているのを見ると、いつもの気の良さそうな弱々しい微笑を浮かべました。
「さあ、おいたはよして、さあ」と、母は言いました。
「ママ、ちょっと話して良い、ね❓」と、ナターシャは言いました。
母に甘えるのにナターシャは見かけは乱暴そうな態度を示しましたが、非常に敏感で、それに器用だったので、どんなに荒っぽく抱きしめても、母に痛さも、具合の悪さも感じさせない様にする事が出来ました。
「さあ聞きますよ、今夜は何の話❓」と、母は真面目な顔になって言いました。
伯爵がクラブから戻る前に行われる、ナターシャのこの夜の訪問は、母と娘の最も好きな楽しみの一つでした。
「今夜は何の話❓私にもおまえに言っておきたいことが。。」ナターシャは手で母の口を塞ぎました。
「ボリスの事ね。。知ってるわ、おっしゃてママ。彼、可愛いでしょ❓」と、ナターシャは真面目に言いました。
「ナターシャ、おまえはもう16だよ、おまえの年齢に私はお嫁に行ったのよ。私は息子みたいに可愛がっているんだよ、でもおまえは一体何を望んでいるの❓あの子をすっかりのぼさせてしまって。。私にはわかっているんだよ。。」
こう言いながら伯爵夫人は娘の顔を見ました。
ナターシャは顔をまっすぐ上に向けたママ、ベッドの脚の上端に掘られたマホガニーのスフィンクスの一つをじっと見つめていました。
その横顔のかつてない真剣な思いつめた表情に、伯爵夫人はぎくりとしました。
「それで、どうだと言うの❓」と、ナターシャは言いました。
「おまえはあの子をすっかりのぼさせてしまったけれど、どう言うつもりなの❓あの子から何を望んでいるの❓あの子のお嫁になれない事は、おまえにもわかっているわね。」
「どうして❓」
「あの子が若いからですよ、あの子が貧しいからですよ、あの子が親戚だからですよ。。それに、おまえ自身があの子を愛していないからですよ。」
「でも、どうしてママにわかるの❓」
「私にはわかっているんだよ、良くない事だよ、ナターシャ。」
「でも、私が望んだら。。」と、ナターシャは言いました。
「馬鹿な事を言うのはよしなさい。」と、伯爵夫人は言いました。
「でも、あたしが望むなら。。」
「ナターシャ、私は真面目に。。」
「おっしゃって、まま。なぜ黙っているの❓おっしゃってよ。」と、彼女は母を見やりながら言いました。
伯爵夫人は優しい眼差しで娘を見ました、そしてじっと見つめているうちに、言おうと思った事をすっかり忘れてしまったらしいのでした。
「あんな事は良くない事だよ、ナターシャ。誰もがおまえ達の子供の頃からの関係を理解してくれるとは限らないし、ボリスがおまえとあんなに親しくしている所を見たら、家に出入りする他の若い人達がおまえを変な目で見るだろうし、それに一番いけないのは、ボリスを無駄に苦しめる事だよ。ボリスは、もしかしたら、自分に似合いの金持ちのお嬢さんでも見つけてるかもしれないんだよ。それが今はまるで血迷ってしまって。。」
「血迷ってるかしら❓」と、ナターシャ母の言葉を真似るのでした。。
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(解説)
ボリスに熱を上げている❓ナターシャとロストフ老伯爵夫人のボリスに対する見解の相違ですね。
まだ16歳のナターシャは、愛し合えば結婚は可能と考えている様な夢見る少女です。
現に、姉のヴェーラは似た様な立場のベルグとめでたく結婚していますし、ナターシャにしてみれば、ボリスにもしその気が有って自分にも愛があれば、ボリスとの結婚に何の障害も無いと思っています。
ナターシャにしてみれば、生まれてこのかた、この豊かな生活が「当たり前」なのですね、お金のことなんか少しも考えたことがありませんし、家族からの愛も当たり前なのですね。
ロストフ夫妻は、この家が借金だらけのガラスの城である事を、子供達には知らせていないのですね。
おまけに、ヴェーラに10万ルーブリもの持参金を持たせる約束までしたので、ナターシャには持参金なんか必要のない大金持ちの貴族に嫁がせたいのですね。
そうでないとロストフ家はもうやってゆけないから。
ロストフ老伯爵夫人の頭にはまずこの「金銭問題」が重くのしかかっているのですね。
だから貧乏なボリスは問題外なのです。
また、ボリスとナターシャは従兄弟同士と言う近親婚の問題もありますので、倫理上もよろしくないと思っているのですね。
ここで滑稽なのは、ボリスも、ロストフ家みたいに爵位だけあって、中身がすっからかんの一族の娘なんか。。と軽蔑している点ですね。
お互い「自分の方が上」的に内心思っているのですね。
ボリスは今まで散々ロストフ家にはお世話になっているのですが、少年だったボリスには、このロストフ夫妻の軽蔑の眼差し・同情の眼差しがきっと我慢ならなかったのでしょう。。
ボリスにしてみれば、足繁くロストフ家に通うのは、ナターシャの魅力ももちろんですが、冷静にナターシャとの子供の頃の約束は「無かった事に。。」と言うきっかけが欲しかったのでもあります。
ナターシャもロストフ伯爵夫人も、ボリスはナターシャに熱を上げて足繁く来ていると思っている様ですが、ボリスはそれより上を行っているのですね。
それに、ロストフ伯爵夫人は、ナターシャがボリスを本当は愛していないだろう、と指摘しています。
これはナターシャに対する先入観の植え付けの様にも思えますが、母親として、その様に思える何かを感じているのかもしれませんね。