(物語)
「ああ。。君か。良く来てくれたな。」とボリスは、しかし笑顔を作ってロストフの方へ歩み寄りながら言いました。
だがロストフは、最初の彼の表情を見落としませんでした。
「まずい所に来合わせたらしいな。。来るはずじゃ無かったのだが、用件があって。」と、ロストフは言いました。
「いや、どうして連隊を抜けて来られたのかと、驚いただけだよ、<今すぐそちらへ参ります>」と、彼は内部かたの呼ぶ声に答えました。
「どうやら、まずい所へ来たらしいな。。」と、ロストフは繰り返しました。
困惑したような表情は、もうボリスの顔から消えていました。
どうやら、素早く状況を判断して、とるべき行動を決定したらしく、彼はロストフの両手を取ると隣室へ案内しました。
平静に、硬質の光を放ちながらロストフを見据えたボリスの目は、さながら何かの膜で覆われたか、共同生活の青眼鏡という一種のレンズをはめられたかのように、ロストフには思われました。
「おい、よしてくれよ、君が来てくれるのにまずい時なんて、ある訳が無いじゃないか。」と、ボリスは言いました。
ボリスは晩餐の支度された部屋へロストフを連れて行くと、彼の名を告げ、文官では無く軽騎兵士官で、自分の旧友だと説明しながら客達に紹介しました。
「ジリンスキィ伯爵、N伯爵、S大尉」と、彼は客の名を挙げました。
ロストフはこわばった顔をフランス士官達に向け、しぶしぶ会釈をして、ムッと黙り込んでいました。
ジリンスキィは、このロシア人の新顔を晩餐の席に迎えたのが面白くないらしく、ロストフに一言も声を掛けませんでした。
フランスの士官の一人が、頑なに黙りこくっているロストフに、いかにもフランス人らしい慇懃な態度で話しかけて、きっと皇帝を見る為にティルジットに来られたんですね、と言いました。
「いや、用事が有ってです。」と、」ロストフは短く答えました。
ロストフは、ボリスの顔に困惑の色を認めた途端から、もう不機嫌になっていたのでした。
そしてロストフは、みんなが自分を不愉快な目で見ているし、自分が皆の邪魔をしているような気がしていました。
そして実際に、彼は皆の邪魔者になって、再び始まった一同の話の外に一人だけ取り残されていました。
『それにしても。。何の為にこの男(=ロストフ)はわざわざここでふくれツラをしているのだ❓』と、彼に投げかけられる客達の視線はこう語っていました。
ロストフは立ち上がると、ボリスの側へ行きました。
「どうも、君に悪いな、あちらへ行って用件を話そう、そしたら僕は帰るよ。」と、彼は小声でボリスに言いました。
2人は、ボリスが寝室に充てている小さな部屋に入りました。
ロストフは座りもしないで、いきなりイライラした調子でーーまるでボリスが彼に対して何か悪い事でもしたようにーーデニーソフの問題を語り出し、デニーソフの件を皇帝に請願し、嘆願書を皇帝に渡してくれる事を、上官の将軍に頼んでくれる気があるかどうか、また、それが出来るかどうか、とボリスに尋ねました。
ボリスは脚を組んで、左手で右手のほっそりした指を撫で、まるで将軍が部下の報告を聞くように、他所を見たり、やはり硬質の光を放つ目を真っ直ぐにロストフの目に当てたりしながら、話を聞いていました。
ロストフは、その目で見られるたびに気詰まりになって、目を伏せました。
「そうした事件は僕も聞いた事があるし、そういう事に対して陛下が極めて厳格な事も知っている。陛下のお耳には入れない方がいいんじゃないか、僕はそう思うよ。むしろ軍団長に直接お願いした方が良いだろう。。だいたい僕はそう思うのだが。。」
「じゃ、君は何もしたくないと言うんだな。はっきりそう言えよ❗️」と、ボリスの目を見ないで、ロストフはほとんど叫ぶように言いました。
ボリスは苦笑しました。
「とんでもない、僕は出来る事はしてやるさ、ただ僕が思うのは。。」
その時、ドアの外にボリスを呼ぶジリンスキィの声が聞こえました。
「もういい、行けよ、行けったら。。」と、ロストフは言いました。
そして晩餐に出るのを断り、1人だけ小さな部屋に残っていつまでも室内を歩き回りながら、隣室から聞こえてくる賑やかなフランス語の話を聞くともなく聞いていました。。
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(解説)
ロストフは、デニーソフの請願書をボリスに渡して、それをなんとか上長経由で皇帝に渡して欲しいと思ってティルジットまでやってきたのですね。
しかし、このティルジットは、ボリスにとって重要な出世の足がかりだったのです。
そんな時に、味方兵糧を奪って自分の部下に食べさせたような「ボリスにとってレベルの低い話」に掻き回されたくないのですね。
ましてや、皇帝にそんな犯罪めいた話を耳に入れることに自分が関与するなんてとんでもない❗️レベルなのですよね。
ボリスは、「自分の出世に取って為になる人物」としか関わりたくない男ですから。
でもね、これは現代でも「世間の常識」的な考えで、むしろ、ボリスの様な人間の方が圧倒的に多いでしょう。。
一応、ニコライ・ロストフは、自分が幼少期にお世話になった家の長男ですから、恩義が有りますし、こんな時こそ一肌脱ぐのが、まあ、人情的ですね。
性格が熱いニコライは「それが常識」と思っている節が見え隠れしますね。
しかし、何度も言うように、ニコライは世間というものを知らなさ過ぎるのですね。
ボリスの性格をじっと観察していれば、ボリスがニコライのお願いを聞き入れないだろう、とすぐに分かるはずですね。
身分は有ってもお金も無い人間がのし上がって行くのに、レールから外れた人間の面倒を見るなんて。。ボリスはこういう人間なのですよね。
ここで、恐らくニコライは少し勉強したと思われます。
と。。ここまで読んで来て、ニコライ・ロストフがデニーソフの嘆願書を預かる事自体どうなのよ❓という疑問が湧いてきます。
そうですよね。。デニーソフは法務官から貰った書類なのだから法務官に渡せば良いじゃないか。。と思うのが筋で、ここでニコライが出しゃばっている事も疑問です。
これは恐らくですね。。戦争の混乱の中、法務官宛に送ったとしてもちゃんと法務官の手元に届くのかかなり怪しい状況があったのでは無いか。。それで、身分も地位もあるロストフに頼んで、なんとか総司令部の該当人物に渡して皇帝の目にきちんと留まる様にしたい。。という意向(トゥーシンもそう言っていましたね。)が有ったと推察します。
この点でも、ニコライは自分の地位とか立場よりも、不遇な友人を助ける事の方を大事だと思っている人間だと推定できますね。