(物語)
そして、アンドレイ公爵はさらに続けるのでした。
「ところが、僕が経験したのは、まるで反対の事だ。僕は名誉の為に生きてきた。(だが、そもそも名誉とは何だ❓これもまた他人に対する愛ではないか。他人の為に何かしてやろう、そして他人の賞賛を得ようと言う願望では無いか❓) この様に僕は他人の為に生きてきた。そして、ほとんどどころか、完全に自分の生活を滅ぼしてしまったのさ。そして、自分一人の為に生活する様になってからだよ。やっと少しずつ落ち着きを取り戻して来たのは。」
「でも、どうして自分一人の為に生活出来るのです❓お子さんは、妹さんは、お父さんは❓」と、ピエールはかっと熱くなって聞きました。
「それは皆、僕と同じ事さ、他人じゃ無いよ。」と、アンドレイ公爵は言いました。
「ところが、他人という奴は、君とかマリヤの言葉を借りると隣人という奴だがね、これが迷いと悪の大元なのさ。『隣人』これは君が善根を施そうとしているキエフの百姓達の事を言うのさ。」アンドレイ公爵は、明らかに、ピエールに議論を挑んでいました。
「僕をからかっていますね。僕が望んで、曲がりなりにせめて僅かでも善を行った事に、一体、どんな迷いと悪があり得るのです❓僕らの百姓の様な不幸な人々、我々と同じ様な人間で有りながら、神と真理について、儀式と訳の解らぬ祈り以外の観念を持つ事無く、育ちそして死んで行く人々が、来世の生活や、善悪の報いや、安楽など、心の慰めを学ぼうとする事に、一体どんな悪があり得るのです❓物質的に極めて容易に助けてやれるのに、その助けが無い為に、人々は病気で死んで行く、だから僕がそれらの人々に薬や病院を与える事にどんな悪と迷いがあるのです❓百姓や乳飲み子を抱えた女房が、夜も昼も休む暇が無い、だから僕が休息と暇を与えてやる。これが目に見える確実な善と言うものでは無いでしょうか❓・・」と、ピエールはますます活気づきながら言いました。
「だから僕はそれを行ったのです。たといお粗末でも。貴方は、僕がした事に対する僕の信念を、覆せないどころか、俺だってその位の事は考えていたんだと言う心の声を消す事は出来ないはずです。もっとも大切な事は。。」と、ピエールは言葉を続けました。
「この善を行う楽しみこそ、人生の唯一の確実な幸福だと言う事ですよ。」
「そりゃ、問題をそんな風に提起したら、それは別問題だよ。」と、アンドレイ公爵は言いました。
「僕は家を建て、庭木を植えるが、君は病院を建てる。そのどっちも時間潰しには役立つだろうさ。だが、何が正しく何が善かーーこの判断は僕らじゃなく、全てを知っている者に任せにゃならんよ。」と、アンドレイは付け加えました。
「彼らは食卓を離れて、バルコンがわりの玄関の階段に腰掛けました。
「さあ、論じ合おう。」と、アンドレイ公爵は言い、さらに言葉を続けました。
「君は、学校とか、教育とか、そうした事を並べ立てる。つまり君は、百姓達を動物的状態から救い出し、精神的要求を与えてやろうと言う訳だ。だが、唯一の可能な幸福はーー動物的幸福だ、と僕は思うな。ところが、君はそれを百姓達から奪おうとする。僕はあの百姓達が羨ましい。 ところが君は、あの百姓を僕の様にしようとする。しかも、僕の様に財産を持たせすにだ。もう一つ、君は、彼の労働を軽減してやると言う。ところが、僕に言わせれば、彼にとって肉体的労働というものは、僕や君にとっての知的労働と同じ様に、生活の絶対の必要であり、条件なのだよ。僕は夜の2時過ぎに寝床に入る、しかし、諸々の考えが頭に浮かんで来て朝まで眠れない事がある。それと言うのも、僕は考えるし、考えずにはいられぬ体。これは百姓が耕したり、刈ったりせずにいられぬのと同じ事だ。それを奪われたら、百姓は居酒屋に行くか、病気になってしまうかだ。僕が百姓の肉体的労働に耐えられずに1週間もすれば死んでしまう様に、百姓は、僕の肉体的無為に耐えられずに、ぶくぶく太って死んでしまうのさ。第3はーー何だったかな、君が挙げたのは❓」
「あ。そうか、病院と薬だったな。百姓が卒中に見舞われて死にかける。ところが君は、瀉血という治療を施して治療してやる。彼は杖にすがって10年もヨタヨタしてみんなの重荷になる。死ぬ方がどんなに安らかで簡単か知れやしない。君が一人でも働き手をーー僕はあの百姓をそう見てるがねーー失うのが惜しいと言うのならともかく、愛情から病気を治してやろうとする。。ところがあの百姓には、そんな事は余計なお節介なのだ。それにもう一つ、医学が誰かを治した事があるかね❓そんな事は妄想にすぎんよ。」と、腹立たしげにピエールから顔を背けてアンドレイは言い放つのでした。。
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(解説)
前回も記載しましたが、アンドレイは、「他人の目」とか「他人の評価」すなわち、自己の受ける名誉を基準にして生きていると自分を見失ってしまう。。と言う考えかただと思います。
ピエールには元々、名誉欲などはありませんから、ピエールが「隣人への愛を持って」生きることこそ幸福感を感じるものだ、と言う事と、アンドレイの言うところの「人の評価を中心に自分の人生を思い描く」こととは少し、ニュアンスが異なると思います。
で、ピエールは確かに、人が善行をすることの尊さに今まで気がつかなくて、それを啓発された時の子供が喜ぶ様に、自分の善行に幸福感を抱いているのですね。
例えば、小さな子供が「人には優しくしなさい。」と教えられた時の「その様な視点を与えられ、それに気づいた」と言う喜びそのままです。
しかし、「そう言う善行はね、所詮偽善に過ぎないんだよ❗️」と、なじられたらその子供は傷つくでしょう。。
今のアンドレイのセリフはまさに「君の善行はね、偽善で迷惑行為だよ。」と言っている様なものですね。
ピエールは大人ではありますが、この様に自分の善行を否定的に取られるならば、ちょっとむしゃげてしまうかもですね。
アンドレイは、百姓達には百姓達に合った生活があるのだから、それをむやみに奪って自分の価値観を押し付けるものではない、労働を奪われた場合、彼らはすることがなくて、お金があればまだ良いものを、なければ却って途方に暮れ、体も壊すだろう。。と言う事を言っているのですね。
また、病院を設立するについても、もう、回復しても元どおりになる見込みのない者を、救った所で、却って農民達の負担になるだろう。。とも言います。
これね、現代の高齢化社会においても全く同じ理屈があるのですね、一面的には非常に正しい観点だと思います。
しかし、時代というものは変わっていくものなのです。
ピエールは、そこまで気がついているか否かわかりませんが、だからと言って、「従来通り」を踏襲する事について少し疑問は持っていると思いますよ。
今の所、ピエールは確かに行き当たりばったりなのですよね。
しかし、自分のやっている事に愚かな点があるとすれば、それはアンドレイが教えてやる事ではなくて、「自分が気がついて」初めて自分が反省するきっかけになるのだと思います。
ここはいろんな価値観をピエールとアンドレイに代弁させて部分だと思います。
もちろんそれぞれの役柄に合わせて。