(物語)
小柄な若公爵夫人は、白いナイトキャップで髪を包み、柔らかい枕に頭を埋めていました。
苦痛は今しがた去ったばかりで、彼女の顔は嬉しそうに微笑んでいました。
アンドレイ公爵は部屋に入ると、夫人が横たわっているソファの側へ行って、その足元に立ち止まりました。
夫人は、子供のように怯え、不安そうで、彼女のきらきら光る目が彼の上に止まりましたが、表情は変わりませんでした。
『私は、貴方達みんなを愛しているのよ、誰にも悪い事なんかしなかったのに、どうして苦しまなければならないの❓私を助けて❗️』と、その表情は語っていました。
彼女は夫を見ましたが、夫が今、ここに現れた事の意味がわかりませんでした。
アンドレイ公爵は、ソファを回って彼女の顔に接吻しました。
「僕の心の妻」と、彼は言いました、これは、彼が夫人に一度も言った事の無い言葉でした。
「「神様は慈悲深い。。」彼女は不安そうに、子供が怒るみたいな目で彼を見ました。
『貴方なら助けて下さるものと思っていたのに、だめね、何にもして下さらない。貴方もやっぱり❗️』と、その目は言っていました。
彼女には、夫が来た事が分からなかったのでした。
陣痛がまた始まりました。
マリヤ・ボグダーノヴナが産室を出るようにアンドレイ公爵に勧めました。
アンドレイ公爵は廊下に出ると、妹マリヤが居たので、妹の側へ行きました。
二人は待ち遠しい思いで、耳を澄ましていました。
「行っておあげなさい、お兄様」と、公爵令嬢マリヤは言いました。
アンドレイは、また東の産室の方へ引き返して、隣の部屋に座って待ちました。
1人の女が怯えきった顔で産室から出て来て、アンドレイ公爵を見ると狼狽えました。
痛々しい動物が最後の救いを求めるような呻き声で、ドアの陰から聞こえて来ました。
アンドレイはドアを開けようとしましたが、ドアは向こう側から誰かが抑えていました。
「いけません、いけません❗️」と、そちらからびっくりした声が言いました。
彼は室内を歩き回り始めました。
叫び声が静まり、さらに何秒かが過ぎました。
そして、赤ん坊の泣き声が聞こえました。
この泣き声の嬉しい意味がわかると、彼は出窓に手をついて子供のように泣き出しました。
ドアが開けられました。
上着を脱ぎ、シャツの袖を捲り上げた医者が、蒼白な顔をして顎をわなわなと震わせながら産室から出て来ました。
医者は、アンドレイ公爵に放心したような目をちらりと向けただけで、ふらふらと歩いて行きました。
1人の女が飛び出して来ました、そして、アンドレイ公爵を見ると、敷居の上に立ちすくみました。
アンドレイ公爵は、妻の部屋へ入って行きました。
妻は、5分前に見たと同じ姿勢で、死体となって横たわっていました。
その美しいあどけない顔には、先ほどと同じ表情が有りました。
『私は、貴方達みんなを愛して、誰にも悪いことなどしなかったのに、どうして私にこんなひどい事を下の❓』と、その死に顔は語っていました。
部屋の隅に、白いものに包まれた小さな赤ん坊が、マリヤ・ボグダーノヴナの震える両手に抱かれて、ぴいぴいと泣いていました。
それから2時間後に、アンドレイは老父の部屋に入って行きました。
老公爵は、もうすっかり知っていました、そして何も言わずに固い両手で万力のように息子の首を抱きしめ、子供のように泣くのでした。
3日後にリーザの葬儀が行われました。
棺の中には目は閉じられていましたが、やはり同じ表情の顔が有りました。
アンドレイ公爵は、その顔を見ると、心の中で何かが抜け落ちたような気がして、取り返す事も忘れる事も出来ないこの過ちが、自分の罪である事を感じました。
彼は泣く事が出来ませんでした。
これからさらに5日後に、幼いニコライ・アンドレーエヴィチ公爵の洗礼が行われました。
洗礼父となった祖父は、みどり子を両手で持って、落としはしなかとびくびくしながら、古いブリキの洗礼盤の周りを回って、洗礼母となった公爵令嬢マリヤに渡しました。
アンドレイ公爵は、赤ん坊を水の中に落としはしないか、とはらはらしながら別室で儀式が終わるのを待っていました。
乳母が赤ん坊を抱いて出てきた時、彼はほっとして赤ん坊の顔を覗きました。
そして赤ん坊の髪の毛につけた蝋片が沈まないで、洗礼盤の中に浮かんでいた、と乳母から聞かされると、良かったという風に大きく頷くのでした。。
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(解説)
戦死したものと思われていたアンドレイ公爵は、まさに妻リーザの出産の日に運命に導かれるかのように帰郷します。
そして、以前は全く心の合致が無かった妻の出産時に妻に再会します。
しかし、この時、リーザは苦しみのあまり意識朦朧状態で、夫が側に居るという事をはっきりと認識できない状態です。
出産というものは、女性の体をボロボロにします。
彼女は、なぜ自分が愛されてもいない夫の為にこんなに苦しまなければならないのか、と言わんばかりの表情でアンドレイ公爵を見ます。
そして、彼女は出産に耐えられず絶命してしまうのですね。
アンドレイ公爵は、彼女の死に顔にもさっき見た時と同じような『貴方は私を愛してくださらなかった、私はこんなに愛していたのに。。』という表情を読み取ります。
それは、彼の心に一人の女性を自分の薄情のせいで苦しめ挙げ句の果てに絶命させたのだ。。という罪の意識を植え付けます。。
彼は、一生この罪を背負って生きるのです。。。。
という流れが、通常の読者の予想ではないか❓と思われます。
しかし、そうかな❓と私は思うのです。
未熟で、英雄を夢見る子供のようなアンドレイ公爵が、その夢を美しい貴族の娘、社交界の華のリーザと分かち合いたい、と思って結婚した所、リーザはごく平凡な幸せを自分に求めた、だから行き違った。。という事ですね、大雑把に言うと。
こう言う事は、ごく一般的にある事だと思うのです。
そしてね、このままリーザが無事出産してアンドレイと一緒に家庭を築いて行く。。と言う流れになった場合でも、やっぱりこの人とうまくやって行けるのかな❓という疑問は大いに残るのですね。
だから、トルストイはこの人の人生を描くにあたって、「そういうアンドレイの葛藤」を描きたかったのではなくて、この一人の女性を幸せに出来なかったのだろう。。という罪の意識をね、なんていうか。。乗り越えたというか、人間って言うものは忘却という偉大な能力もあるでしょう❓、それを超えた所のこの人の人となりの成長を描きたかっただけではないか。。と思うのです。
だって、英雄になりたければ、この人の設定を「独身」にしても物語的には構築できたわけで、この人をわざわざ既婚で登場させて、すぐに奥さんを亡くす、っていう設定にしたのはね、もっと何か違う狙いがあったのではないかと思うのですよ。
(追記)後日の感想
この記事をアップする頃には、アンドレイはナターシャと口約束の婚約をし、破綻している部分まで読み進めています。
つまり。。アンドレイ公爵という人物は、結局、『自分の夢を追い求める男』で、所詮家庭的では無かったようですね。
リーザを自分の薄情の為に、生きる気力を失わせしめたのと同じような事を、ナターシャにもしているんですね。
そこまで読み進めてみると、もし、ナターシャがアンドレイ公爵と無事何事も無く結婚したとしても、やっぱりナターシャはリーザの二の舞になった。。とという、ナターシャのもう一つの有り得た人生をリーザという女性の人生に重ねている風にも見えますね。
だから、アンドレイ公爵の、2人も女性を幸せにできなかったという「責め」は、ようやくナターシャに裏切られた❓後にアンドレイ公爵に認識し得たのかもしれませんね。
この人は、やっぱり挫折の経験が無いので、人の気持ちを汲むという作業がとても苦手なように思いますね。。
こういった点でやっぱり私はこの人にとって『アウステルリッツの青い空』は他人であるナポレオンのちっぽけさを思ったまでじゃ無いかな。。自己内省はしていないと思うんですよね。