(物語)
ロストフはその夜、小隊を率いて、バグラチオン軍前方の側衛散兵壕(※敵前に散開させた兵の戦闘を有効にする為に設けた壕)に居ました。
小隊の軽騎兵達は散兵壕に2人1組に点々と配置されていて、彼は抗しえぬ力で襲いかかってくる睡魔と戦いながら、馬で散兵線を巡察していました。
後方には広大な空間が広がり、霧の中に点々と我が軍の焚き火がにじんでいました。
前方は霧に閉ざされた闇でした。
重い瞼が垂れると、彼の頭の中に皇帝の姿だの、デニーソフだの、モスクワの思い出だのが浮かんで来ました。
それでまた慌てて目を開くと、すぐ前に自分が乗っている馬の頭や目が見えたし、時々6歩ほどの距離まで近づくと軽騎兵達の黒い姿が見えたが、その先はやはり同じ霧に閉ざされた闇でした。
『どうしてないのだ❓大いにあり得る事じゃないか』と、ロストフは考えました。
『陛下が俺を見かけて、命令を与えて、行って様子を探って来い、とおっしゃる。何度も聞かされたが、陛下は全く偶然に、ふとある士官にお目を留められて身近にお近づけになった事がよく有ったそうじゃないか。陛下が俺を近づけて下さったらどうだろう❗️おお、そしたら俺は生命をかけて陛下をお守りし、真実をすっかり進言し、陛下を欺く腹黒い輩の面の皮をひん剥いてやるのだが❗️』そしてロストフは、皇帝に対する自分の愛と忠誠をまざまざと思い描く為に、皇帝の敵か腹黒いドイツ人を想定し、天誅を加えるばかりか、皇帝の面前で頬を殴り飛ばす所を想像しました。
ふいに遠い叫び声がロストフの夢を破り、彼はぎくりとして目を開きました。
『ここはどこだ❓そうだ敵兵線だ。合言葉は。。。梶棒とオルミューツだ。えい、シャクだなあ。我が中隊が明日も予備とは。。』と、彼は考えました。
『戦闘に出してもらえるようにお願いしよう。これがひょっとしたら皇帝にお会い出来る唯一の機会かも知れんぞ。もう間も無く交代だ。もう一度一回りして、戻ったら直ぐに将軍の所に行ってお願いしよう。』
彼は鞍の上で姿勢を直すと、もう一度小隊を巡察する為に馬を進めました。
少し明るくなったように、彼には思われました。
正面の黒い小山の上に白っぽい斑点が見えましたが、それが何かロストフにはどうしてもわかりませんでした。
ロストフは、その白い斑点の上を何かが動いたような気さえしました。『きっと、あれは。。雪だな。。よせやい、斑点なもんか。。』と、ロストフは考えました。
『ナターシャ、妹、黒い瞳。ナ。。ターシカ。。(俺が皇帝に会った事を教えたらあいつびっくりするだろうな❗️)おい、背嚢、背嚢を取ってくれ。。』
「もう少し右へお寄り下さい、隊長殿。そこに薮があります。」うとうとしながらロストフが通り過ぎかけたのを見て、軽騎兵の一人が声を掛けました。
ロストフは、もう馬のたてがみの辺りまで垂れていた頭を上げて、軽騎兵の側に馬を止めました。
ふいに彼は、身辺を通り過ぎる弾丸の音を聞いたような気がしました。
「何だ❓何だ❓なにい❗️。。ぶった斬れ❗️何事だ❓。。」はっと我に返ってロストフは言いました。
目を開けた瞬間、ロストフは前方の敵陣と思しき辺りに、数千の声の長々と尾を引く叫び声を聞きました。
彼の馬も、側に立っていた軽騎兵の馬も、この叫び声にきっと耳を立てました。
叫び声の聞こえてきた辺りに、火が一つ灯って、消え、続いてまた一つ、そして山上のフランス軍の全線に渡って点々と火が燃え上がり、喚声がますます大きくなって来ました。
ロストフは、フランス語の響きを聞きましたが、多くの声の唸りで聞こえるのはアアア❗️とルルル❗️だけでした。
「あれはなにだ❓なんだと思う❓確かにあれは敵陣だな❓」と、ロストフは側の軽騎兵を振り向きました。
「わかりゃしねえですよ。隊長殿。」と、軽騎兵は気乗りのしない声で答えました。
「位置からすると、確か、敵の方角だな❓」と、ロストフは繰り返しました。
「敵かも知れねえが、ただ騒いでいるだけかも知れねえですよ。」と、軽騎兵はぼそぼそと言いました。
ロストフの馬は唸りに耳を立て、点々と燃える火をにらみながら、焦れて、前脚で凍った地面を掻いていました。
喚声はますます強まるばかりで、数千人の軍しか生み得ないような大きな唸りに溶け合いました。
火は敵陣と思しき線に沿って次第に広まって行きました。
ロストフは眠気も吹っ飛んでしまいました。
敵陣の勝ち誇ったような「皇帝陛下、万歳❗️」という元気な叫びが、もうはっきりとロストフの耳に聞こえたのでした。
ーーーーー
(解説)
ロストフは攻撃線前夜、小隊を率いて馬で散兵線を巡察していました。
しかし、もう深夜。ロストフは襲ってくる睡魔と必死に戦いながらの巡察です。
頭の中には、アレクサンドル皇帝に目を掛けてもらったら。。。などと空想をしています。
いまいち勤務に集中できていません。
戦争前夜というのに、今回もロストフの中隊は予備で控えることになっています。
ちょっと平和呆けしている感じですね。。
そんな時、山上のフランス軍の全線に渡って点々と火が燃え上がり、次第に喚声が大きくなって行くのを耳にします。
そしてその喚声は、はっきりと「皇帝陛下、万歳❗️」という敵陣の勝ち誇ったような元気な声でした。
一体、フランス軍で今、何が起こっているのか。。ロストフは疑問に思い、眠気も吹っ飛んでしまうのでした。
つまり。。ワイローテルの作戦によると、フランス軍は撤退して遠くにいる筈なのに、ロストフは比較的身近な前方の敵陣と思しき辺りに、数千の声の長々と尾を引く叫び声を聞いた、という事ですね。