(物語)
その時、ドアの陰から活気ある不満そうなクトゥーゾフの声と、それを遮る聞き覚えの無い声が混じり合って聞こえて来ました。
これらの声の調子、会釈どころでないコズロフスキイの態度、疲れ切った書記のとげとげしさ、馬番のコサック達が窓の下で無遠慮に高笑いしている様な軍紀の乱れ。。こうした全ての事情から、アンドレイ公爵は、何か重大な不幸な事態が起こったに違いないと感じるのでした。
アンドレイ公爵は、執拗にコズロフスキイに質問を浴びせました。
「もう直ぐですから、公爵。バグラチオンへの作戦命令書なのです。」と、コズロフスキイは言いました。
「じゃ、降伏は❓」
「とんでもない、戦闘計画の作成です。」
アンドレイ公爵は、声が聞こえているドアの方へ歩いて行くと、向こうからドアが開き、鷲鼻のクトゥーゾフが戸口に現れました。
しかしクトゥーゾフの独眼の表情は、あまりにも深大な苦慮に心を奪われていて、目の前のものも見えないかのようでした。
「おい、どうだ、終わったか❓」と、彼はコズロフスキイに声を掛けました。
「はいただいま、閣下。」
パグラチオンが総司令官に続いて出て来ました。
強気で不屈な面魂の、中背で瘦せぎすの、まだ老年に遠い東洋的な顔をした男でした。
「ただいま、帰隊いたしました。」と、アンドレイ公爵は封書を差し出しながら、かなり声高に繰り返しました。
「あ。。ウイーンからか❓あとだ、あとだ❗️」と、クトゥーゾフはバグラチオンと表口へ出て行きました。
「では、公爵(=バグラチオン)、さらばじゃ。」と、彼はバグラチオンに言いました。
「武運を祈るぞ。貴官の偉大な功績を祝福するぞ。」と、クトゥーゾフの目に涙が滲みました。クトゥーゾフは、バグラチオンに十字を切り別れを交わしました。
クトゥーゾフは、馬車の側に行き「わしと一緒に乗りたまえ。」と、ボルコンスキーに声を掛けました。
「閣下、どうか私をバグラチオン公爵の部隊にお移し下さい。」と、アンドレイは言いました。
「乗りたまえ。」と、クトゥーゾフはボルコンスキーが渋っているのを見て、付け加えました。
「わしにも良い士官が必要なのだ。わし自身にも必要なのだよ。」
彼らは馬車に乗り込みました。
そしてしばらく無言のまま馬車に揺られていました。
「まだこの先いろんな事がある。全ては、これからだよ。」と、クトゥーゾフは、ボルコンスキーの心中をすっかり見抜いている様に炯眼(けいがん)な老将らしい言葉で言いました。
「もし、彼の部隊から、明日。10分の1の兵力が生き延びて来たら、わしは神に感謝しよう。。」と、自分で自分に言い聞かせる様にクトゥーゾフは付け加えるのでした。
アンドレイはクトゥーゾフを見ました、すると、イズミルの戦闘でこめかみに敵弾を受けた傷痕の、きれいに洗われたひっつれと、白くかわいた片目が、見まいとしても目に入ったのでした。
『そうだ。。この人は、あの部下達の死をこの様に平然と語る資格があるのだ❗️』と、ボルコンスキーは思うのでした。
「だからこそ、私をあの部隊に残して下さる様お願いするのです。」と、アンドレイは言いました。
しかし、クトゥーゾフは、自分が今言った事を忘れたかの様に深い瞑想に沈んでいたのでした。
彼は微かな冷笑を浮かべ、皇帝との対面の模様や、宮廷内でのクレームスの勝利への反応などをアンドレイ公爵に尋ねるのでした。。
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(解説)
アンドレイは、総司令部に到着しましたが、何か不穏な空気を感じます。
クトゥーゾフ軍は、フランス軍に包囲されてしまっているのです。
アンドレイは、もう一人の副官コズロフスキイに「(フランスに)降伏するのか❓」と問います。
しかし、「クトゥーゾフ軍は降伏なんかしない❗️戦闘命令が出されている。」とコズロフスキーはアンドレイに言います。
その時、バグラチオン公爵の一部隊が決死の戦闘に行くことをクトゥーゾフが命令した事をアンドレイは知ります。
アンドレイは愛国心も正義感も名誉欲も強い男です。
つい、クトゥーゾフに「自分もバグラチオン公爵の部隊に入れてくれ。」と申し出ます。
しかし、クトゥーゾフは、今回の戦闘は、形勢が極めて良くない所の戦闘になるので、バグラチオン軍は10分の1も生き残らないだろう。。とアンドレイに説明します。
それに、今回の戦闘に勝てたとしても、クトゥーゾフ軍はロシアに退却している訳です。
そんな戦争に若くて有能なアンドレイを駆り出す訳には行かない、と判断したのでしょう。。
ロシア軍は、東進してくるフランス軍に自国の国境を守るという大事な任務があるのだ、と暗にクトゥーゾフはアンドレイに示唆しています。
そして、その時こそ、最強の軍隊に仕上げておかねばならないのだ、という総司令官としての「軍の動かし方」を示しているのだろう。。と思います。
あ。。歴史はあまり解っていないので、かなり自己判断でクトゥーゾフの気持ちなどを記載しております。悪しからず。。