ウイーン磁器工房(1) ヨーロッパで二番目に開始された磁器工房。 | 気ままな日常を綴っています。

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ウイーンは、神聖ローマ帝国の王宮が置かれ、18世紀には現在のオーストリア、チェコ、ハンガリー、ドイツの大部分にまたがる広大な帝国の政治、経済、文化の中枢機能を担う都でした。

1683年にはオスマン・トルコ軍に包囲され、甚大な被害を被りましたが、2ヶ月で帝国軍がハンガリーを征服して領土を拡張しました。

 

その後、フランスのジャン・ベランやオランダやイギリスで磁器室(磁器を飾る部屋)を設計したダニエル・マロらの手によって壮大な建造物が続々と設計され、ウイーンは急速に近代都市に変貌して行ったのでした。

1711年には、早逝した皇帝ヨーゼフ1世に代わり、カール6世が即位しました。

 

このカール6世のもとには「宮廷軍事官」を務めるデュ・パキエ(❓ー1751)という男が居ました。

トリアー(現ドイツ)から来たオランダ人であった彼は、マイセンでの磁器発明のセンセーションに大いに発奮し、やがてマイセンへと旅立って行きました。

 

デュ・パキエは、マイセンでエナメル絵師フンガーと出会い、彼を引き連れてウイーンに舞い戻ったのは1717年10月の事でした。

デュ・パキエは、オーストリア領内において25年磁器の制作・販売を独占的に行うための特権を、カール6世に願い出、1718年5月27日に許可を手にしました。

 

フンガーは、オーストリア領内の土を用いて実験を繰り返しました。

しかし、成功の兆しはありませんでした。

デュ・パキエはたまりかね、マイセンからベトガーの焼成や磁土作りの助手を務めていたシュテルツェル(1685ー1737)を引き抜く事に成功しました。

彼は、デュ・パキエから1,000グルデンの高給と住居、馬車を提示され、スカウトに応じたのでした。

 

シュテルツェルが1719年1月にウイーンに到着した事により、事態は急に好転しました。

シュテルツェルの尽力により、当時マイセンでもっぱら使用されていたシュノール産の磁土の供給を受ける事も出来るようになり、ようやく1719年4月に、彼らはヨーロッパで二番目に磁器生産に達成したのでした。

 

しかしながら、シュテルツェルとフンガーは激しく対立しました。

また、この製作所は国王の特許を取得したとは言っても、マイセンとは大きく異なり、経営的には純然たる私企業、今日で言えばベンチャービジネスの小さな町工場同然でした。

結局、莫大な製造コストの為利益が上がらず、約束された報酬が支払われる事は夢のまた夢、磁器の製造を軌道に乗せることすらままならない状態だったのです。

 

シュテルツェルは、1720年4月7日、ウイーンですでに頭角を現していた若手画家ヨハン・グレゴリウス・ヘロルトを誘い、生まれ故郷のマイセンへ引き返しました。

ウイーンを去るに際して、シュテルツェルは製作所の焼成窯と磁土の原料に危害を加え、15,000ターレルの損害を与えました。

これは、自分の正当性をマイセンに主張する為の策であったと思われます。

帰郷後は、天才絵師のヘロルトを製作所に紹介する事によってようやく赦しを得、同年7月にマイセンで復職して事無きを得ています。

 

間も無くフンガーも、ウイーンを去ってヴェネチアへ赴き、ヴイッツィ兄弟が設立した製作所に於いて1723年に磁器の焼成を成功させています。

(つづく)

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