海を渡った古伊万里  (11) ザクセン公国のアウグスト強王のコレクションについて。 | 気ままな日常を綴っています。

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まず、下のお写真をご覧ください。

これはアウグスト強王のコレクションではありませんが、当時のヨーロッパの王侯貴族が東洋磁器で部屋を飾ったものです。

 

 

※シャルロッテンブルク宮殿(シャルロッテンブルクきゅうでん、:Schloss Charlottenburg)とは、ドイツベルリンシャルロッテンブルク=ヴィルマースドルフ区にあるプロイセン王国宮殿。ベルリンの代表的観光地のひとつ。

プロイセン王・フリードリヒ1世1699年に妃ゾフィー・シャルロッテのために建設[1]。最初は「リーツェンブルク宮殿」(Schloss Lietzenburg)および「夏の館」と呼ばれていたが、ゾフィー・シャルロッテの死後に彼女を偲んで改名された。大戦時1943年空襲で被害を受けたが、現在は復元されている。・・・以上、ウイキペディアより。

 

(シャルロッテンブルク城「磁器室」下の3点が古伊万里、上の2点が中国磁器。近くで見たら分かると思いますが、古伊万里のデザイン・形状は本当に洗練されていると思います。赤金の金襴手とは言え、華やかさは群を抜いています。この様な高品質の商品は、個人貿易によって、お金に糸目を付けない王侯貴族の手に渡ったと考えられます。)

 

(同じくシャルロッテンブルク城の磁器室)

 

アウグスト強王の古伊万里のコレクションとしては、マイセンで模造された柿右衛門様式の作品が特に注目され、世間の関心は柿右衛門様式(濁手の作品ですね。)に集中する傾向であります。

 

しかし強王のコレクションには金襴手も多く、それらは古伊万里ばかりか、中国磁器による金襴手写しの作品も含まれています。

また、金襴手を写したマイセン磁器が多く製作されています。

強王の時代の彼の宮殿は、バロック様式に基づいていた為、金彩を用いないシンプルな印象の柿右衛門様式よりも、金彩を用いた絢爛豪華で色彩表現が強烈な金襴手の作品が、強王の室内装飾に調和し、強王の時代のドイツの一般的な流行に合致するものであったのです。

 

しかし、だからと言って、強王が金襴手を特に好んだかと言うと、そう断言する事は出来ません。

なぜなら強王は、網羅的に全ての種類の磁器をとにかく手当たり次第にたくさん集める事を意図していたと思えるからです。

日本磁器では、柿右衛門、染付、金襴手、染錦手、献上伊万里、中国磁器では、ファミーユ・ヴェルト、ファミーユ・ローズ、金襴手写し、徳化窯の貼花を施した白磁や彫像など、この時代の市場に並びそうな全てを、それぞれ大量に所有していました。

 

強王は、「磁器の城」という磁器だけで全室を飾る大規模な城の建築を計画していましたので、約25,000個という東洋磁器でも十分では無かったのです。

このように強王のコレクションは、個人的な好みを読み取る事が出来ないほど博物学的な収集だったのです。

他の王侯のコレクションは、特定の様式の作品に集中する例が珍しくなく、その偏在によって持ち主の好みや収集条件の必然性が理解されるものですが、アウグスト強王の場合はその点異色だったのです。

 

金襴手と染錦手は、古伊万里様式の磁器の中でも特に大量に、おそらく柿右衛門様式と比べれば安い値段で販売されていた製品で、質的に柿右衛門様式に及ぶものではありませんでした。

この様式の大壺や大皿は、柿右衛門様式よりもさらに多くの各国の宮廷や大聖人も所有していました。

 

そして、この様式の古伊万里を購入する人々の階級は、時代が下るにつれてその幅を広げて行き、市民の為の大量生産による廉価な磁器が望まれていたのです。

しかしながら、この(市民の為の)廉価商品のジャンルに於いて、日本が中国に対して劣勢を強いられ、1683年VOCはオランダ向けの古伊万里の公式輸出をやめ、より貿易条件の有利な中国磁器を選んだのでした。。

 

今日はここまでです。

読んでいただき、誠に有難うございます♪♪

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(追記)

「海を渡った古伊万里」の次に「マイセン」のお話を準備していますが、このザクセン公国のアウグスト強王の東洋の磁器への執着は半端なく、東洋からの輸入に飽き足らず、自国で磁器の生産を目指した事はあまりにも有名です。

このアウグスト強王が存在しなければ、ヨーロッパの磁器生産はウンと遅れただろう。。と想像されます。

 

本文の王のコレクションぶりを見ていてもその執着の強さが他国の王とは比較にならないことが伺えます。

また、強王の審美眼は、当時のヨーロッパ列強国の王達の比較にはならないほど優れていた事も伺われます。

これは「マイセン」の項目で述べますが、強王は、陶磁器を「食器」としての分類から、陶磁器に「動き」を求める「新たな芸術」へ、という方向性に導いています。

幻の日本宮殿には、様々な表情をした動物たちの磁器橡で飾られる予定でした。

もし、強王が後10年も長生きしていれば、日本宮殿は実現しており、大変な遺産になった事でしょう。。

 

「マイセン」がヨーロッパ初の磁器工房として成功を成し得たのも、この王が存在してこその快挙だったのです。

実際、マイセンの磁器制作の秘法はハプスブルグ家が支配するオーストリアに漏れ、オーストリアの天才絵付け師ヘロルトのの出現によって一時オーストリアのデュ・パキエ工房(注:ウイーン磁器工房の前身)が一世を風靡しますが、最終的にはアウグスト強王率いるマイセン工房へ陶磁器の女神は微笑みます。

この強王が、磁器の秘法を漏らした職人を再び受け入れたからです。

もし、王が、自分への裏切り行為を許さなかったら、ヨーロッパの磁器制作の勢力地図は全く塗り替えられていたでしょう。

王がどれほど磁器や芸術を愛していたか。。これこそが、マイセンに繁栄をもたらしたのだと思っております。