アルフォンス・ミュシャ展に行きました。(令和5年5月16日) | 気ままな日常を綴っています。

気ままな日常を綴っています。

いつか静かに消える時まで。。
一人静かに思いのままに生きたい。。

今日は、福岡市美術館で開催中の「アルフォンス・ミュッシャ展」に行きました。

今回は、フラッシュを焚かない・動画でない撮影は自由でした。

コレクターのチマル博士のご好意と、後、特許が切れている(❓)という関係からだそうです。

 

アルフォンス・ミュシャチェコ語: Alfons Mucha、本名:アルフォンス・マリア・ミュシャチェコ語: Alfons Maria Mucha)、1860年7月24日 - 1939年7月14日)は、チェコ出身でフランスなどで活躍したグラフィックデザイナーイラストレーター画家・・・以上、ウイキペディアより。

 

もともと幼少の頃から画才は有ったようですね。

これは14歳の時に描いた恋人をイメージしたデザインだそうです。

もう、アール・ヌーヴォー様式の香りがします。

ところが、18歳の頃、プラハ美術アカデミーを受験するも不合格となるんですね(こういう事って有りますよね〜。主観に訴える物で生計を立てて行くってどんだけ大変なのでしょう。。。)

で、19歳の頃にウイーンの舞台装置などを製作する工房で働くのですが、その工房の最大の顧客のリング劇場が消失し、ミュッシャは失業するのですね。

22歳の頃、エゴン伯爵というパトロンを得て(要するに地方の名士の肖像画を描いて生計を立てたのですね。)それからエゴン伯爵の援助で(絵が気に入られたのですね。)ミュンヘン美術院に入学・卒業するのです。

 

27歳の時にクーエン伯爵の援助を得てパリのアカデミー・ジュリアンに通うことになるのです。

その頃、パリではまさにアール・ヌーヴォー様式が流行していたパリの「ベルエポック」時代。

ミュッシャは、広告、ポストカード、ブックデザイン、ステンドグラスなど幅広いジャンルで自分の才能を発揮し、まさに「時代の寵児」となるのです。

 

 ※ベル・エポック・・・「美しき時代」の意。19世紀末から第一次世界大戦勃発にいたるまで、パリをはじめとす  る近代都市空間で文化と経済の繁栄が謳歌された時期を指すが、厳密な時代名称とはいえない。印象派、後期印象派、象徴主義、アール・ヌーヴォー、キュビスム、フォーヴィズムなど数々の新しい芸術運動、芸術思潮がこの世紀転換期に展開された。万国博覧会では各国の芸術と産業の成果が誇示され、舞台ではバレエ・リュスが一世を風靡、女性解放の流れを受けてモードの世界ではポワレがコルセットを追放するなど、各領域で現代化が進む。この古き良き時代への懐古的憧れはM・プルーストの著作に、時代の華麗で享楽的雰囲気はA・ルノワールやトゥルーズ=ロートレックらが描くモンマルトルの盛り場の光景によく表われている。

 

彼を一躍有名にしたのは、1834年34歳の時に、舞台女優のサラ・ベルナールの芝居の為に作成した「ジスモンダ」(en:Gismonda)のポスターだったのです。

これはベルナールが年の瀬に急遽ポスターを発注することにしたのですが、主だった画家が休暇でパリにおらず、印刷所で働居て居たミュッシャに飛び込みで依頼したものだったのです。

完成したポスターは評判となり、サラ・ベルナールも大変それを気に入り、ミュッシャは彼女と6年間の契約を結ぶことになるのです。

ここで彼は、彼女の為に宣伝用ポスター、舞台衣装、髪型及び宝飾品の製作を手がけ、それが世間に評判となり次々と仕事が舞い込むことになるのです。

(ジスモンダ)                                                 

(これは、私が展覧会で撮影した「ジスモンダ」)

(四季 1896)」

(私が展覧会で撮影した「四季」)

この連作パネルは、印刷会社シャンブノワ社が考案し、ミュッシャが手掛けた装飾パネルです。

1896年の出版時、出版社の手違いで春と夏の図版を入れ替えて出版されたが、ミュッシャはこれを承認しています。ここでは、出版当時の順番を尊重しています。

(ソディアック(黄道十二宮)1896)

(私が展覧会で撮影した「黄道十二宮」:ポスター、リトグラフ)

(ジョブ 1897)

(私が展覧会で撮影した「ジョブ」)

タバコ会社のジョブ社のポスターですね。

タバコを美味しそうに飲む女性の恍惚とした表情、それでいて上品な画風が魅力的ですね。

こうしていろんな分野でミュッシャは活躍するのです。

紙幣やメダル、ビスケットやチョコレートの包装、絵皿などなど。。。

それらの作品を少しアップさせていただきます。

 

(雑誌社パリ=フランスのために有価証券)

 

(チェコスロバキアのコルナ紙幣、郵便切手とデザイン画)

 

(ゴーフルとビスケットのパッケージデザイン)

 

(チョコレート缶のパッケージ)

 

(装飾皿)

 

(フリーメイスンのヤン・アモス・コメンスキー支部のメダル)

 

それから、アール・ヌーヴォーを彷彿とさせる植物の水彩画も展示してありました。

(1894年 矢車菊の装飾文様)

マイセンフラワーを彷彿とさせる表現力ですね❣️

 

(1904年 水彩画ひなげし)

そしてミュッシャは1906年から1910年までアメリカに移住。

アメリカに進出した理由は野心的なものではなかったみたいです。

単純に資金集めだといわれています。パリ時代にスラブ民族1000年にわたる大叙事詩の絵画化構想を抱いており、そのための資金が必要だったということだそうです。

1905年、ミュシャはチェコの歴史作家の小説『すべてに抗して』を読み、自国の歴史を絵で表現することを決意していたのですね。

 

また、アメリカではスラブ主義の思想家のトマーシュ・マサリクと出会ったのをきっかけに、実業家のチャールズ・リチャード・クレインがミュシャのパトロンとなり、1909年の『スラヴ叙事詩』の資金援助に同意しました。

 

(1928年 スラブ叙事詩展ポスター)

と、以上、ごく一部ではありますが、大まかな展覧会の様子をアップさせていただきました。

長い記事で本当にすみません💦