気ままな日常を綴っています。

気ままな日常を綴っています。

いつか静かに消える時まで。。
一人静かに思いのままに生きたい。。

(物語)

ロシア軍は、ボロジノを撤退して、フィーリ付近に止まっていました。

陣地視察に行ってたエルモーロフ が、クトゥーゾフ の所へ戻って来ました。

「この陣地ではとても戦いになりません。」と、彼は言いました。

クトゥーゾフ はびっくりして、もう一度彼に繰り返し聞きました。

彼が同じ事を言うと、クトゥーゾフ は手を差し出しました、「どれ、手を見せてごらん。」と言って、相手の手を掴み、脈を見るように、掌を上にすると言いました。

「身体の具合いが良くないようだな、君、何を言っているか、わかっとらんのだろう。」

 

クトゥーゾフ は、ドロゴミーロフ門から6露里のポクロンナヤ丘で馬を降り、道端のベンチに腰を下ろしました。

大勢の将軍達が彼の周りに集まりました、ラストプチン伯爵は、モスクワから駆けつけて来て、将軍達の仲間に加わりました。

このきらびやかな一団は、いくつかのグループに分かれて、陣地の利点とス不利な点や、軍の状況や、予想される戦闘計画や、モスクワの状況等、総じて軍事上の問題について話し合いました。

これが軍事会議であることは、誰もが感じていました。

 

総司令官は、周りで話されている事を聞いていて、話を聞き直したりしていましたが、自分からは話に加わりませんでしし、一切の意見も述べようともしませんでした。

大抵は、しばらくどれかのグループの話に耳を向けていて、その話している事が、自分の知りたいと思っている事とはまるで違うとでも言いたげに、がっかりした顔をして、別な方向へ顔を向けてしまうのでした。

それぞれのグループの話から、クトゥーゾフ が感じたのは、ただ1つ、『モスクワ防衛については、いかなえう物理的可能性も無い』と言う事でした。

つまり、それは、もしどこかの血走った総司令官が決戦の命令を与えたとしても、混乱が生じて、所詮会戦にはならない、と言う意味でした。

なぜかと言うと、軍首脳部の全員が、この陣地の防衛を不可能と認めていただけでは無く、それぞれの話において、(防衛についてでは無く)この陣地を撤退後に起こる事態のみを論じ合っていたからでした。

どうして指揮官達が自分で不可能と認めている戦場に、自分の部隊を進める事が出来るでしょうか❓

下級指揮官達も、兵士達でさえ、(彼らとて判断する力は有るのです)、やはり、この陣地の防衛は不可能と認めていました。

 

ベニグセンは、自分がこの陣地を選んだので、自分のロシア愛国心を熱烈に申し出て(それをクトゥーゾフ は、顔をしかめ図には聞いていられませんでした)、モスクワ防衛を主張しました。

クトゥーゾフ は、ベニグセンの腹の中をはっきりと見通していました。

この防衛が失敗した場合は、ーー戦闘も行わずに軍を雀が丘(※モスクワ郊外の現在モスクワ大学が有る丘)まで後退させたクトゥーゾフ に、責任を転嫁する、成功した場合はーーそれを自分の功にする、この案が退けられた場合はーーモスクワ放棄の罪から免れる、という事でした。

 

しかし、この陰謀の問題は、今、老将軍の心を捉えませんでした、なぜなら、1つの恐ろしい問題が彼の心を捉えて離さなかったからです。

それは『ナポレオンをモスクワまで来させたのは、本当にこのわしなのか❓一体、いつ、わしがそんな事をしたのだ❓いつそんな事になったのだ❓昨日、プラートフに後退命令を出した時か❓それとも一昨日の晩、うつらうつらしながら、ベニグセンに指揮を命じた時か❓それとも、もっと前か❓。。それにしても、いつこの恐ろしい問題を決定されたのだ❓モスクワは放棄されねばならぬ、そしてこの恐ろしい命令を出さねばならぬとは。。』

 

この恐ろしい命令を出す事が、彼には、軍の指揮を返上する事と同じ事に思われるのでした。

しかし、彼は権力を愛し、権力に慣れていただ毛で無く(トルコで、彼の上を立っていたプロゾロフスキイ公爵に払われる敬意が、どれほど彼に悔しい思いをさせた事か)、ロシアを救う事が自分の天命なのだ、だからこそ、皇帝の意に反し、国民の意志によって総司令官に選ばれたのだ、と彼は固く信じていました。

彼は、この困難な条件の中で、軍の総司令官の任務に耐えうる者は自分をおいていないし、臆せずに堂々と不敗のナポレオンを好敵手と認める事が出来るのは、世界で自分1人だけだ、と固く信じていました。

だから、彼は『モスクワ放棄』という命令を与えなければならぬという事に、慄然としたのでした。

 

彼は、主だった将軍達を側へ呼びました。

「わしの頭が良いにしろ、悪いにしろ、こいつ以外に頼るものが無いのだよ。」と、ベンチから腰を上げながら、彼は言いました。

そして、彼の幌馬車が置いてあるフィーリの方へ馬を向けました。

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(解説)

クトゥーゾフ は、ボロジノの会戦でのロシア軍の士気の高さを感じ取って、「明日、攻撃するぞ❗️」と言う指令を軍の隅々にまで伝達させます。

そして、ボロジノを撤退して、フィーリ付近に留まり、エルモーロフを陣地視察にやります。

しかし、視察を終えて戻ってきたエルモーロフ の答えは「この陣地ではとても戦いになりません」と言う報告でした。

この報告に、クトゥーゾフは驚きます。

自分が思っていたよりも、軍の損傷は酷かったのですね。

 

クトゥーゾフは周囲に大勢の将軍達を集め、陣地の利点とス不利な点や、軍の状況や、予想される戦闘計画や、モスクワの状況等、総じて軍事上の問題について話し合いました。

この軍事会議で話されていた事を聞いたクトゥーゾフの結論は、『モスクワ防衛については、いかなる物理的可能性も無い』と言う事でした。(もう軍自体が疲弊しきっていて、これ以上の攻撃を仕掛けようものなら、国家を守る軍自体が崩壊してしまう、という事実を確信した、という事だと思います。)

 

しかし、クトゥーゾフを陥れたいベニグセンは、自分がこの陣地を選んだので、自分のロシア愛国心を熱烈に前面に押し出しモスクワ防衛を主張します。

クトゥーゾフは、もしこの作戦が失敗した場合、又は排除した場合、のあらゆる場面でも苦境に立たされるのは分かっていました、即ち、ベニグセンは、自分の責任を免れ、クトゥーゾフに失敗をなすりつけ、自分に功が有るようにしたいだけでした。

 

しかし、クトゥーゾフは、そんなベニグセンの陰謀よりもむしろ、『モスクワ放棄』という命令を与えなければならぬという事に、慄然としたのでした。

クトゥーゾフは、一体、いつ、そんな決断をしなければならない状況になってしまったのか。。と思い、又、モスクワを放棄する事は、彼にとって、軍の指揮を返上する事と同じ事に思われるのでした。

ここでは、『モスクワ放棄』を決断せざるを得なかったクトゥーゾフ の辛い心情を記載している部分ですね。

お早うございます♪  今朝は、令和8年3月24日の日記です♪

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こんばんはー♪  現在18時31分です。

室温18.2度。湿度46%です。

電気ストーブを付けるとちょっと暑い、消すとちょっと寒い。。そんな感じですね(^。^)

仕方ありません。

 

今朝は5時50分に起床です(証拠写真はありません💦)

昨夜はお布団に入ってもなかなか寝付けず(これは暖かくなってきたからですね。。もう少ししたら夜中に読書とか始めそうです(^。^))、お布団に入ってyou tubeで音楽なんか聴いていました。

ちょうど真ん中に広告が挿入されないのだったので、快適に聴けていたと思います。

記憶が有るは23時くらいまで。ネットを閉じてゆっくり眠ったと思います♪

 

今朝も良いお天気みたいです。

これは6時半くらいに薔薇やパンジー・ビオラさんの植木鉢にお水を上げていた時の東の空です。

ようやく日が昇り始めた時間ですね。。ちょっと空気が霞んでいます。

手前に薔薇の新芽が元気に伸びています💞

 

溜まっていたブログフォローチェックといいね❣️のお返しと、ちょっとコメントをしていました。

そうしたら、98歳のお父様の自宅介護を頑張っておられるじゅんさんの記事にきな粉餅が出てきたので、パック餅で朝ごはんに作りました✨

息子夫妻がくれたお餅も冷凍庫にあるのですが、解凍していなかったのでね、パック餅です。

パック餅のお餅はコシが強いですが、息子夫妻がくれるのは柔らかめですね。

柔らかめの方がお好みです💞

 

7時くらいから英字新聞をやっつけていました。

今日の所はまあまあ優しかったので9時頃にはノルマ終了しました。

 

今日は午後から用事が2件入っていたので、午前中に通読に行くことにしました。

まー、自宅でもやれない事は無いのですけれどね。

電気代の節約❓と気分転換を兼ねて、です(^。^)

 

10時前に脱出です♪

とっても良いお天気です。

 

マクド様には11時半くらいまで居ました。

 

まあまあ、ノルマを片付けて、帰宅後はコメントのお返事を頑張りながら、冷凍庫からどこからともなく出てきた作り置きの冷凍餃子(どうやら、前々回の分らしい。。)を焼いていました。

お昼ご飯は、時計が光っていませんが12時19分ですね。

茶色いおかずですが、お野菜もまあまあ食べれて大満足でした(^。^)

 

13時半に管理会社の方が見えたので、9階の屋上を見に行きました。

話し合った結果、うちのキッチンの天井の壁紙を剥がして確認した方が良さそうだ、という事になりました。

担当者が御帰りになった後、私自身、県民共済の火災保険に入っていますので、管理組合の保険が適応されない部分について個人の保険が適応されるか、を電話で確認したりしていました。

なんとかなると良いんですけれどね。まー『運が良ければ』という事ですね、原因次第だそうです。

原因が判明次第また、交渉ですね。

社会勉強と思って頑張りたいですね(^。^)

 

15時からは定期歯科検診。

特に問題は無かったので良かったです。

16時過ぎに帰宅して、何やら家事を片付けて晩御飯は『例の』残ったハンバーグとデコポンジュースにしました。

簡単で美味しかったです✨

ま。今日もこんな感じで無事終了です。

明日(=今日の事)は実家の庭掃除と介護施設訪問ですが、福岡市は大雨みたいです。

まー、それならば暑く無いってことよねー、という事で頑張って行きたいと思います。

朝9時に自宅を出る予定です。

9時から17時まで断水・停電なんですよー。

昼過ぎに一旦自宅に戻って(ブログフォローチェックを済ませる)、今度は南薬院のマクドでランチをしようかな。。とか思っとります♪

 

それでは、今日も良い一日をお過ごし下さいね💞

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(余談)

He said his wife and three children had been very supportive of the hobby.
The final display joins together more than 300 of the polystyrene boards to depict the entirety of New York City, including its waterways.

彼の妻と3人の子供たちは、この趣味にとても協力的だったと彼は話しました。最終的な展示では、300枚以上のポリスチレンボードをつなぎ合わせ、水路を含むニューヨーク市全体を表現しています。

   supportive:協力的な、支えとなる、支援的な(形容詞)

   supportive of the hobby:趣味を支援する、趣味に協力的である

  depict:(絵画・映画などで)(…を)描く、(…を)(言葉で)描写する、叙述する(他動詞)

  entirety:完全、そっくりそのまま(の状態)、全体(不加算)

  waterway:船が航行できる水路や運河

 

It is not an exact replica of today's New York: the Twin Towers, which were destroyed in the 9/11 terror attack in 2001, feature(d) alongside the new One World Trade Center.  ➡︎(d)は記載なし。

これは、2001年の9月11日のテロ攻撃で崩壊したツインタワーと、新しいワンワールドトレードセンターが共存する、今日のニューヨークの正確なレプリカではありません。

  exact:正確な、厳密な、精密な(形容詞)

  replica:オリジナル作品を模して作られた複製や模造品

  terror:非常に強い恐怖や恐ろしさを意味する英単語。テロ、手に負えない子

  terror attack:テロ攻撃

  feature:〜を特徴とする(他動詞❓)

  alongside:そばに、並んで、一緒に(前置詞)(副詞)

 

Macken, a native New Yorker now living elsewhere in the state, said even he was surprised to see the finished project after more than two decades.

ニューヨーク出身で州内の別の場所に住むMacken氏も、20年以上経って完成したプロジェクトを見て驚いたと述べました。

  elsewhere:どこか他のところに、別の場所で(副詞)

  

I can't believe it. I mean, I look at this and I'm just like, did I really make this? he said.

「信じられない。これを見ると、本当に私がこれを作ったのかって思ってしまうよ」と彼は言った。

  I'm just like, did I really make this?:本当に私がこれを作ったのか❓

 

Museum staff organized the exhibit after seeing Macken sharing his work on TikTok, where he gained millions of viewers.

Macken氏がTikTokで作品を共有し、数百万人の視聴者を得たことをきっかけに、美術館のスタッフが展示を企画しました。

  share his work on TikTok:彼の作品をTikTokで共有する

 

Elisabeth Sherman, chief curator and deputy director at the Museum of the City of New York, said she hopes visitors will find their stories in the model.

ニューヨーク市立博物館のチーフキュレーター兼副館長であるエリザベス・シャーマンは、来館者がその模型の中に自分たちの物語を見出すことを期待していると述べています。

  curator:博物館や美術館などで資料の収集、保管、展示、調査研究、企画、運営などに携わる専門職

  deputy(デピュティ):代理役、副官、(フランス・イタリアなどの)代議士、議員

(物語)

ヨーロッパの12カ国の兵力がロシアに侵入しました。

ロシア軍と住民は、衝突を避けながら、スモーレンスクへ、さらにボロジノへ後退しました。

フランス軍は、次第に惰性を増しながら最終目的地モスクワに急進しました。

その惰力は、落下する物体が地面に近づくにつれて速度を増すように、目的地に進むに連れて益々増大して行きました。

 

後方は、憎悪に燃えた飢えた敷地が数1000露里もあり、前方は目的地まであと数10露里を残すばかりでした。

ナポレオン軍の全ての兵士達がそれを感じていました、そして侵入軍は益々加速される惰力だけでひとりでに突き進んで行ったのでした。

 

一方、ロシア軍の方は、後退を重ねるにつれて、敵に対する憤りの気持ちが益々激しく燃え盛って行きました。

ボロジノ付近で衝突が起きました。(※ボロジノの会戦)

どちらも崩壊しませんでしたが、ロシア軍は衝突の直接の結果として必然的に後退しました。

ロシア軍はさらに120露里ーーモスクワの後方まで後退しました。

フランス軍は、モスクワまで達し、そこで停止し、その後5週間、1度の戦闘もありませんでした。

つまり、フランス軍は動けなかったのです、致命傷を受けた野獣が多量の出血に弱りながら、彼らはモスクワに留まり、何もしようともしませんでした。

 

そして突然、フランス軍は後退を開始しました。

彼らはカルーガ街道に殺到し、マロヤロスラヴ付近でロシア軍とぶつかりながらも、一度も重大な決戦を行わずに、益々速度を速めながら、スモーレンスクへ後退し、スモーレンスクからヴィルナへ、ベレジナへ、さらにその先へと後退して行きました。

 

8月26日夕暮れにはクトゥーゾフも、全ロシア軍も、ボロジノの会戦は勝ったと思い込んでいました。

クトゥーゾフ は、そのように皇帝に書き送っています。

クトゥーゾフ は、敵の息の根を止める為に、新たな戦闘の準備を命じました。

ところが、その晩から翌日にかけて、軍の半数が失われたという未曾有の損害についての報告が続々と入って来始めました。。その結果、新たな会戦が物理的に不可能であることが、判ったのでした。

つまり、未だ報告の総合も、負傷者の収容も、担架の補充も、戦死者の確認も、戦死した指揮者達の後任の任命も一切行われておらず、兵達も十分な食事も睡眠もとっていない、という状態では、戦闘を行う訳には行かなかったのでした。

 

しかもそれと同時に、早くも会戦後の翌朝には、フランス軍はもうひとりでにロシア軍に向かって動き出しました。

クトゥーゾフ は、翌日攻撃を掛ける事を望んでいましたし、全軍もそれを望んでいました。

しかし、攻撃する事は不可能でした。

一手後退しない訳にも行きませんでしたし、さらにまた一手と後退せざるを得ませんでした。

そしてついに9月1日、ーー軍がモスクワの手前まで来た時ーー全軍の士気は旺盛だったにもかかわらず、物理的力関係は、軍にモスクワの後方へ退く事を要求したのでした。

かくして軍は、もう一手、最後の後退を行い、モスクワを敵に明け渡したのでした。

 

書斎で地図を前にして、これこれの戦闘には兵をこう動かしああ動かすなどと、いろいろと想を練るように、司令官達が戦争全般や局地戦闘の作戦計画を作戦するものだ、という考えに慣れている人々には、クトゥーゾフ の指揮が理解出来ないでしょう。。

このような考えに慣れている人々は、総司令官の行動は、常に様々な不可避な条件の中で行われるものだ、という事を知らないのです。

総司令官は、我々が事件を考察する際に常に想定するような、ある条件は『ここから始まった』と言うような条件の中には、絶対に置かれていません、総司令官は常に動いている一連の事態の中に置かれています。

そして、この連鎖的に続いて行く事件の刻み目の1つ1つの瞬間に、総司令官は複雑極まる策動や、陰謀や、権力や心労などの中心に置かれて、数限りなく提示される、時には矛盾し合うような様々な問題に、絶えず返答を与えなければならないのです。

 

クトゥーゾフ は、フィーリのはるか手前で軍をカルーガ街道へ向けるべきであったし、しかもその案を誰かが進言までしているのに。。と軍事専門家達は大真面目に分析しています。

しかし、様々な事務処理、そこへペテルブルグから『モスクワ放棄など許されぬ』と言う皇帝の親書まで届けられている状態の中で判断をしなければなりません。

さらに、クトゥーゾフ の失脚を策している者が、混乱させるような進言をしたでしょう。。

およそ総司令官たる者の行動に、こうした避け得ぬ諸条件を理解出来ない人々は、例えばフィーリにおける軍の状況を我々に示して、総司令官は9月1日にモスクワ放棄か防衛かの問題を『全く自由に』決定出来たはずだ、と推定しています。

しかし、この(モスクワを放棄するか防衛するかの)問題は、フィーリまでに至る一連の(フランス軍による)ロシア侵攻の状況で刻一刻と状況が形成されて行く過程で、次第に決定されつつあったのでした。

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(解説)

ここも、ロシア軍がボロジノの会戦でフランス軍を相当追い詰めながらも、モスクワの後方へ後退せざるを得なかったのは、状況的にいた仕方がなかった事だ、と言うような事が述べられていると思います。

また、侵攻側のフランス軍も、ボロジノの戦いで既に士気を失いかけ、勢いと惰性でモスクワまで突き進んだものの、新たにロシア軍を攻撃する余裕は全くなく、5週間モスクワに留まったものの、(講和も思うようになされず、寒さも到来しているので)やむなくモスクワから後退して元来た道を後退せざるを得なかった。。と言うような説明が記載されています。

 

ここも、第3巻においては、何度か同じような説明がなされている部分だと思います。