とりあえず書いてみます。
継続はなんとかとよくいいます。
田中早織里の写真について。
彼女の作品は、植物の名前を写真に直接書きこむ、というもの。
私が彼女の写真を見て考えてしまった指示性の問題とは、以下のようなもの
基本的に写真の性質として指示性indexなるものをもっている、というのはバルトもいうところで
「これが~さん」
「これは~だ」
というように、端的には指示のために写真は使われているのだけど
彼女の作品においては、その指示の力ももぎとってしまうように思えたのですね
つまり、写真のなかにうつっている草花をひとつひとつ全部「それが何か」説明してしまうこと
(しかもモノクロなので枯れているとかの個体間のちがいも分かりにくい)
で、写真に「何がうつっているのか」という見る側の、写真をみるときの最初の問いをはじきかえして、文字に注目させてしまい、結果的に写真を見せないようにしている
ということです
でも逆にこうして彼女のようにありとあらゆる写真を分析していけば、
その写真のなか、ひいては自分がみているもののなかには、ものすごい量の情報がはいっていることが可視化され、つきつけられるわけです
その意味で写真ではなく、現実に眼差しをむけるような作品なのかなあと
そう思うと、プリクラで女子高生が自分たちの名前を書いてますね。
あれは自己顕示として位置づけてしまってもよいとは思うけれど
むしろアレは現実とのあまりの差異から名前くらい書かねばそのひとかどうか確認できないのかw
はい、こうしてね、将来のためにちょいちょい書く練習しないとです。
ほんとにいい加減なことしかかけないけど、頑張ります。
というか、最近は作品みるとしゃべりたくてしょうがない衝動にかられるので、メモなんだが。
ぺこ:)
追記
>その意味で写真ではなく、現実に眼差しをむけるような作品なのかなあと
これはようするに、図鑑のようだ、ということ?と考えたが
やはり違って、彼女はモノクロで、手書きで、自分の知識でもって雑草についてメモを施しているだけだ。それはメモであって、完全ではない。
不完全な図鑑は、「それ、本当?」と思わずにはいられない。
そして植物の知識のある人は写真を覗きこみ、他の人は別のリンクをはって確認しようとするだろう
ここで、前者も後者もそれは写真をみてるのではないと私は思うのですね
文字と写真のあいだの往復をみている、というのが今はしっくりきてます
田中作品において、写真そのものとしてはみないけれど、作品は見ている。
だから私の目をひいたのかな、という結論で今日はしめます。
本日はキタアートめぐり。
国立国際→the third gallery Aya→sai gallery→port T gallery
国立国際はアラカワ祭り。
アラカワさんといえば岐阜の天命反転地ですよ。
しかし、「死なないための葬送」はまた…コンセプトは一貫してるけど、かなり違ったオブジェ。
汚れたセメントと綿、金属の塊が丁寧に木棺のなかに寝かされている。
綿、というとは少し違うがボイスを思い浮かべる。
包み込んでのみこむような動きのある物質だ。
汚れているから、一度はこの世に生きたものが、葬儀にさいしてなお、うまれようとしているようにも思える。不思議な生命力と死の雰囲気の共存。
1950年代~60年代のアートをもういちど、内外みなおしてみなければ。
Ayaでは、垣本泰美の個展。
少女を中心においたコンストラクティッド写真。
わたしとしては、もう少し強度がほしいようにも思う。
最近考えていることだが、写真の強度とは、少なくともアートでは
何を撮っても、どんな手法で撮っても、いつ撮っても、どうしても撮影者をにじませるようなものだと思う。個性、といったらそれまでだけれど、個性よりももう一次元、高いもの。本能、に近いが、違うもの。それがある限り、その写真は残ると思うのだが
いかんねまだまだまとめきれてないす
いつかこれについて書きたい。
とりあえず垣本の作品には少女を「生と死、現実と非現実の仲介者」としていてこの考え自体には共感できるが、あまり写真にする必然性がみえない。会田誠で事足りるなと思ってしまう
saiでは、石川亮個展。明るいままだと朝日を、暗くしてもらうと蛍光緑がひかりだし、夕暮れを思わせるユニークな絵画作品。神山をモチーフにしているらしいが、普遍的な山を眺める経験がひとりひとりに与えられる。
これまでの作品もみたが、自然に氷をとかしてちょろちょろと注ぐ作品は、形態としても非常によかった。おそらく、本物をみればライプのミルクストーンのようにじっと見入るような気持ちのよい時間がすごせるだろう。
思わぬ収穫。
最後にport galleryに。
4人での展覧会。私が一番気になったのは、田中早緒里。
彼女はアート畑の出身ではなく、もとは理系の学生らしい。
なんでもない場所の雑草をとってそのなかの雑草を、直接写真に日本語と学名(ラテン語)で逐一書き留めている。
ぱっとみると、作者が大変楽しく撮っているようすと小さな命にたいする優しい目線が目に浮かぶが、またこの作品は写真にとって根本的な問題を明瞭に語っているように思われる。
それは、写真の指示性についての問題。
ちょっとこれについては明日かきます。
ギャラリー巡りのあと書評バトルして疲れましたw
ぺこ:)
国立国際→the third gallery Aya→sai gallery→port T gallery
国立国際はアラカワ祭り。
アラカワさんといえば岐阜の天命反転地ですよ。
しかし、「死なないための葬送」はまた…コンセプトは一貫してるけど、かなり違ったオブジェ。
汚れたセメントと綿、金属の塊が丁寧に木棺のなかに寝かされている。
綿、というとは少し違うがボイスを思い浮かべる。
包み込んでのみこむような動きのある物質だ。
汚れているから、一度はこの世に生きたものが、葬儀にさいしてなお、うまれようとしているようにも思える。不思議な生命力と死の雰囲気の共存。
1950年代~60年代のアートをもういちど、内外みなおしてみなければ。
Ayaでは、垣本泰美の個展。
少女を中心においたコンストラクティッド写真。
わたしとしては、もう少し強度がほしいようにも思う。
最近考えていることだが、写真の強度とは、少なくともアートでは
何を撮っても、どんな手法で撮っても、いつ撮っても、どうしても撮影者をにじませるようなものだと思う。個性、といったらそれまでだけれど、個性よりももう一次元、高いもの。本能、に近いが、違うもの。それがある限り、その写真は残ると思うのだが
いかんねまだまだまとめきれてないす
いつかこれについて書きたい。
とりあえず垣本の作品には少女を「生と死、現実と非現実の仲介者」としていてこの考え自体には共感できるが、あまり写真にする必然性がみえない。会田誠で事足りるなと思ってしまう
saiでは、石川亮個展。明るいままだと朝日を、暗くしてもらうと蛍光緑がひかりだし、夕暮れを思わせるユニークな絵画作品。神山をモチーフにしているらしいが、普遍的な山を眺める経験がひとりひとりに与えられる。
これまでの作品もみたが、自然に氷をとかしてちょろちょろと注ぐ作品は、形態としても非常によかった。おそらく、本物をみればライプのミルクストーンのようにじっと見入るような気持ちのよい時間がすごせるだろう。
思わぬ収穫。
最後にport galleryに。
4人での展覧会。私が一番気になったのは、田中早緒里。
彼女はアート畑の出身ではなく、もとは理系の学生らしい。
なんでもない場所の雑草をとってそのなかの雑草を、直接写真に日本語と学名(ラテン語)で逐一書き留めている。
ぱっとみると、作者が大変楽しく撮っているようすと小さな命にたいする優しい目線が目に浮かぶが、またこの作品は写真にとって根本的な問題を明瞭に語っているように思われる。
それは、写真の指示性についての問題。
ちょっとこれについては明日かきます。
ギャラリー巡りのあと書評バトルして疲れましたw
ぺこ:)
かみはきりました。
前髪だけ。自分でけっこうきってしまった。
アニメのキャラみたいになってる。
さて今日はようやくサントリーにいけました。
れぞなんすっすよーーーほんまにギリギリせーーーふ
これまで行った友達ほとんど「展示は面白いけど、人いないよ」という感想をいただいていたので
タカをくくってましたが、さすが最終日、やはり人は多い。
特にカポーが。ペア解説イヤホン借りろ!
さて、とりあえず総じて友人の感想前半はあってました。
おもしろかったです。
とくにね、カーディフの40人のモテットの合唱開始のとき、どこのスピーカから指揮者の声がしたんかはしらんけど、観客の誰かがだまったんだよね
そしたら他の観客もそれが伝染してだまるのね。
そうなると20人くらいの観客がだんだんシーンってなるの。
おお!レーゾナーンス!!
と、私は勝手に盛り上がってたわけなんだけど。
西尾さんのナイロビプロジェクトは、
去年彼のお手伝いしたときにもらった冊子とおなじもので、
とても懐かしくて嬉しかったです。またにしおさんにあいたいな。
マッカーシーはやはりいっちゃってました。
人形を、まさかしごくとは。ベルメールとはまた違った嗜虐です。
まあ彼の場合は人形自体を目標とはしていないからだとは思うけど。
法貴さんは、あいかわらず好きだ。
彼の心象世界があんなんだったら私はそこの住人になりたい。
あのにほん線が、ブレた像をいきいきとさせてる。
そしてロスコがいきなりあって、びっくりした。
小泉さんは、かなり身に覚えのある状況が目の前に繰り広げられていた。
ただ、完成した演技をただあの画面でみたらそれが記録画像ともみれるし、演技ともとれるわけで
現実→虚構→現実→虚構→.......どちらからはじまってたかなんて分からないもんなんですよね。
これもけっこう衝撃だった。
ライプのミルクストーンは有名だけれど、本物をみたのははじめて。
じーっとその表面張力をみていたら、その大理石とミルクのさかいめがわからなくなって、ぐんぐん白くて冷たい世界が広がるようで、浸りたくなった。
だだっぴろくて真っ白い部屋がひとつもらえたら、これをひとつだけおく。
ライアン・ガンダーの作品は、シリアスでも重くもなく、しれっと鑑賞者を「放置」(展覧会シートより)する軽妙さが、好きだった。「作品?ないですけど、なにか?」という感じね。
そして単に壁の穴を覗き込むなんて、あまり経験したことがないから、純粋にわくわくするのです。
うん、かきまくったな。
で、なぜこんなに私がエキサイトする展覧会が人があまりいないといわれるのか?
私の趣味の問題か、単なる体感の違いか?それらを別にすれば
「共鳴」っていうコンセプトのもとに集められた現代アートが、アート畑の人間には「うん、たしかにね」という感じだけど、そうじゃない人は「これら全部何を選ぶ基準にしてるのかわからん」と思いかねないなあと。
鑑賞者と作者の共鳴なのか、作品との共鳴なのか、あるいは鑑賞者同士の共鳴なのか、作品や作者のなかで完結する共鳴なのか。ってゆーか共鳴って何。
こうやってわけていくと、私はどのレベルの共鳴もあって面白かったんだけど、
あまりにレベルが多層すぎて、絞りきられていなくて統一性にかけてるって思われてしまうのかもね。
「で、この展覧会何がいいたいの?」と。
まあ私美術館とか展覧会についてそんな手法やコンセプトのことを語れるほどではないのだけど
とりあえず思ったことなのでメモ。いつか恥ずかしくなってけすなw
明日は京都の荒川修作マドリンギンズいくつもり。
ああーーアートかいたい。
ぺこ:)
前髪だけ。自分でけっこうきってしまった。
アニメのキャラみたいになってる。
さて今日はようやくサントリーにいけました。
れぞなんすっすよーーーほんまにギリギリせーーーふ
これまで行った友達ほとんど「展示は面白いけど、人いないよ」という感想をいただいていたので
タカをくくってましたが、さすが最終日、やはり人は多い。
特にカポーが。ペア解説イヤホン借りろ!
さて、とりあえず総じて友人の感想前半はあってました。
おもしろかったです。
とくにね、カーディフの40人のモテットの合唱開始のとき、どこのスピーカから指揮者の声がしたんかはしらんけど、観客の誰かがだまったんだよね
そしたら他の観客もそれが伝染してだまるのね。
そうなると20人くらいの観客がだんだんシーンってなるの。
おお!レーゾナーンス!!
と、私は勝手に盛り上がってたわけなんだけど。
西尾さんのナイロビプロジェクトは、
去年彼のお手伝いしたときにもらった冊子とおなじもので、
とても懐かしくて嬉しかったです。またにしおさんにあいたいな。
マッカーシーはやはりいっちゃってました。
人形を、まさかしごくとは。ベルメールとはまた違った嗜虐です。
まあ彼の場合は人形自体を目標とはしていないからだとは思うけど。
法貴さんは、あいかわらず好きだ。
彼の心象世界があんなんだったら私はそこの住人になりたい。
あのにほん線が、ブレた像をいきいきとさせてる。
そしてロスコがいきなりあって、びっくりした。
小泉さんは、かなり身に覚えのある状況が目の前に繰り広げられていた。
ただ、完成した演技をただあの画面でみたらそれが記録画像ともみれるし、演技ともとれるわけで
現実→虚構→現実→虚構→.......どちらからはじまってたかなんて分からないもんなんですよね。
これもけっこう衝撃だった。
ライプのミルクストーンは有名だけれど、本物をみたのははじめて。
じーっとその表面張力をみていたら、その大理石とミルクのさかいめがわからなくなって、ぐんぐん白くて冷たい世界が広がるようで、浸りたくなった。
だだっぴろくて真っ白い部屋がひとつもらえたら、これをひとつだけおく。
ライアン・ガンダーの作品は、シリアスでも重くもなく、しれっと鑑賞者を「放置」(展覧会シートより)する軽妙さが、好きだった。「作品?ないですけど、なにか?」という感じね。
そして単に壁の穴を覗き込むなんて、あまり経験したことがないから、純粋にわくわくするのです。
うん、かきまくったな。
で、なぜこんなに私がエキサイトする展覧会が人があまりいないといわれるのか?
私の趣味の問題か、単なる体感の違いか?それらを別にすれば
「共鳴」っていうコンセプトのもとに集められた現代アートが、アート畑の人間には「うん、たしかにね」という感じだけど、そうじゃない人は「これら全部何を選ぶ基準にしてるのかわからん」と思いかねないなあと。
鑑賞者と作者の共鳴なのか、作品との共鳴なのか、あるいは鑑賞者同士の共鳴なのか、作品や作者のなかで完結する共鳴なのか。ってゆーか共鳴って何。
こうやってわけていくと、私はどのレベルの共鳴もあって面白かったんだけど、
あまりにレベルが多層すぎて、絞りきられていなくて統一性にかけてるって思われてしまうのかもね。
「で、この展覧会何がいいたいの?」と。
まあ私美術館とか展覧会についてそんな手法やコンセプトのことを語れるほどではないのだけど
とりあえず思ったことなのでメモ。いつか恥ずかしくなってけすなw
明日は京都の荒川修作マドリンギンズいくつもり。
ああーーアートかいたい。
ぺこ:)