こだわることについて



一例として、ビーガンやベジタリアン、オーガニック思考、潔癖症などの人たちがいます



生まれた時からそうだったなんてことはまず無く、大概は後天的



その始まりはふた通りあると思っていて、



菜食主義やオーガニックだと身体の調子が良い

綺麗な空間が気持ち良い



など、自然の流れで調子や状態を感じた結果から思考がそのようになった場合と



菜食主義やオーガニックは健康的だから身体に良いからと言った情報、または波動が高いから


綺麗な空間は場の振動数が上がる、開運すると言った情報



など、自身の感覚を置いてけぼりに結果を期待して取り組む場合があるように感じます



後者は思い込みや何かの情報の植え付けで自ら選択した結果ではない



それでも、気にかけることで体調や不運が改善する場合ももちろんあります



前者が自然な流れと感じますが、後者も自分の選択で行った場合はそれなりの循環が生まれるように思います




こだわりの拗れが起きやすいと感じるのは、後者の人がその思考を他者に強要すること



良かれと思って行ったアドバイスだとしても、その情報を他者に強要することは、思い込みの押し付けであり、人の脳内を狭くしていくように感じます



そして、それは自分に返ってくる



そして一番影響が出やすいのは親子




どんな情報であり、選択するのは本人で強要するものではないように感じるから




良かれと思ってした行いが、まさか自分に返ってきているとは思いもしないので、いつまでも自分自身の不調の根源に気づけずに、同じ不調を繰り返したり、原因がわからない




うっかり思う「〇〇しないと〇〇になるよ」なんて繰り返しの念が病気や不調を生んでいるかもしれません






〇〇でなければならない何てことはほぼなく、当てはまるのは「誰かを傷つけてはならない」くらいしか思い浮かばない



それだって、無意識に傷つけている時もある



〇〇でなければならない



そんなことは一つもないのかも知れません




書いてて思い出した子どもの頃



小学生の頃だったと思うのですが、横断歩道を同じ色しか踏めないなど、こだわりを持った行動はストレス過多の第一歩、病気の始まりだみたいな話を聞いた記憶が蘇ってきました



こだわる行動は、脳の働きを狭めることもあるようです


一方で深掘りするこだわりは活性化するとも言われているので、人間って面白い



どんな物にも表裏の両面がある



最終的には、自分がどうしたいかにかかっているので、人の思考は参考までに留めておく方が良きかなぁ

 



今、目の前の選択は



自分由来?


他者由来?




同じ行動でも、どこから来た選択なのかで起きる現象が変わっていくけど、選択できない環境や状態にある人は、自身の選択を近くにいる人に委ねるしかないから、委ねられる大人の責任は大きい




健全で健康な肉体と精神を維持することは、こだわりと言うかたまりを解かしていくように思っています




その〇〇でなければは、どこからやってきたの?