「開放」や「覚醒」をうたうプログラムを見聞きすることがあります



心を動かすこと、感動することを推奨されることもよく聞く話し



わたしも、自分の感情を感じることは大事だと思っています




思い返せばですが、わたしは長らく妄想の感動と魂の感動が混在し、自分の求めている声を見失っていた時期があったように感じています



妄想が拡大すると


勘違いの「好き」


拠り所の「好き」


が占領していく



その先にあるのが「執着」や「依存」なのかも



「さみしさ」「自己否定」「トラウマ」など抱えている不満足な感情の一端に触れ心が動くことで、涙したり笑ったりしながら開放されたように感じていたけど、それは妄想の開放だと後に気づく出来ごとがありました



もちろん、この積み重ねが浄化になり調和されていくこともあると思います



しかし、大元の不満足が開放され調和に向かう時にそれまで感じていた「好き」は何ら関係なかったし、そもそも不満足な思いなどなかった



それは、妄想の開放があったからこそで、体験として必要だったのですが



人と集う喜びや、似た思想の中で暮らす軽やかさは楽しさがありますが、その楽しさは「妄想」に流されていないか、俯瞰してみるとそれは妄想で「欲」からくるものだったり




わたしが妄想の一つと感じているものに「推し活」があります

ブームのようで、たまにお客さまとの会話にも出てきます


華やかだったり、可愛かったり、エンターテイメントな世界はわたしも好きです



生きる糧になっているのなら必要なことなのかもしれませんが、糧がなくても生きる力を養うには魂が振るえることを増やすことだと感じています




「糧」は与えられるものではなく自ら湧き出す源泉だと感じます




魂が振える感動を自分から生み出す




それは歓びとは限らず、怒りかもしれません


寂しさかもしれません




どんな感情が自分の糧や原動力になっているのか




さっちゃんちでは、そんな気づきを促す整体を施しています




そして今日は怒りが湧き出た方でした


ずっと忘れられない感情は、頭や心に占拠し身体の巡りを低下させる


身体に触れながらお話を聞いていると、話の内容により筋肉が硬くなったり柔らかくなったりします



仕事が好きと言う方も仕事の話で硬くなる方もいらっしゃる



身体はとても素直だなぁといつも感じます




喜怒哀楽




ハッキリわかりやすい人は素直な証拠

だけど、生きにくさを感じる人も少なくない




社会は舞台な一面もあり、みんな芝居が上手くなっている

知らず知らずの芝居上手は時に拗らせるから、芝居している時は自覚を持って芝居する




それも自分を知る一つだと感じます




源から湧き出る感動は「無」のような感覚だなぁとわたしは感じます

感動はどちらかと言うと「静」



大きく動かずにわずかな微振動



どうやら、さっちゃんちのてあては、心振える生きる糧(源)が湧き出すようです




生きる糧は自分の中にあると感じます


たくさん感じて自分の中の源と仲良しになること


そんな仲間が集い輪が広がる




まさに「たまゆらの輪」



こちらもぼちぼちと始めます