つまるところ、どんなものが来るにも、理由はあると考えることができる。
人が「安請け合い」をするのにも、やはりそれ相応の理由はあると考えた方が、やはり正しいのです。
甘える人は、時に責任がある態度を積極的に出して来る。
しかし、それは、本当は甘えるために使った手口だということが、結果としては見えて来ます。
どうしても甘えるには、やはり、そのために使う理屈づけが必要になる。
それは、甘える人自身にもわかります。
だから、本来は甘えられないのに、「甘えていいよ」と言ってもらえるやり取りを作り出そうとして来ることになるわけです。
そして、甘えるための言い訳にできて、一見スキなく問題のない態度、つまりは「責任があるかに見える」類いの態度は、甘えと正反対に見えても積極的に出して来ます。
それで甘えられると踏んでいるのだから、当然のことと言える。
だから、「安請け合い」に出てくるのです。
しかし、甘えが強いと、本当の責任感や意識はない。そのへんは、やはりない。
だから、「安請け合い」の後のことは、ろくに考えもないのです。
そういう人は、最初からの甘えの目的をかなえたら、その後のことは「げまかせばいい」ぐらいにしか考えていない。
いや、本人はそれすらまともにわかってはいないのです。
責任がないためです。
人のやることは、線で見なければいけない。線でみれば、なぜ普段からいい加減な甘えてばかりの人が、ある時には責任感の強い「安請け合い」を売り込みたがるかが、意外なほど簡単に見えて来ます。
カッコつけの「安請け合い」は、間に受けると相手の甘えばかり許すことになる。
当然、甘えの人は周りの迷惑など、どうとも思っていない。自分が責任を取るつもりがないからに他なりません。
しかし、本人は責任がある「つもり」にはなれる。
「安請け合い」の魔術は、しょせんは、自分にとってのものに過ぎない。だから、ニセの思い込みには、いくらでも陥れてしまう。
こういう人は、すべてが逆転していて、責任がないくせに、責任があることにしないとカッコがつかないので気が済まない。
実は、カッコは安請け合いと同じこと。
安請け合いで生きられなくなると、パニックを起こすので怒るようになるのです。
しかし、甘えに我を失う者が「責任」を取ることはありません。現に、責任を取らねばならない現場に置かれればわかります。
ただし、その場をしのげる「安請け合い」にはいつまでもしがみつくので、ご注意を。
ただ、カッコをたてにとったやり取りで、自分の思い通りの流れになれば、甘えの人はそれでいいのです。
ただし、甘えの人は、「流れ」は人任せにならざるを得ない。
見かけでは、どれほどえらぶっていたとしても、責任がない甘えの人には、現実で生きる意味もわからなければ、その勇気もない。
だから、その場主義の「安請け合い」でしか何ものとも関われないのです。それは「線」で見ればわかること。
本人に気づく力はありません。
「責任」がない限り、現実の意味はわからないからです。