人は、自分が生きる上で、当然しなければならないことをすることが、仕事と責任であることを深く納得するまでは、やはり小さな子どもと変わらないところがある。
それも、子どもがやるのとまさに同じように、自分に見とがめられることをうまく隠そうとするか、むき出しにして甘えようとするだけなので、「責任」がないと、まず間違いなく、表面的にはひっくり返っています。
つまり、「責任」を取らずして甘えるために、責任があるふりをする。
また、責任をとっているのだから、「無責任」は見ないでいいという態度にこりかたまってしまう。
もし、まじめに「責任」を取るつもりなら、するはずのない「反対」のことを必ずするようになるものです。
ところで、生きることにとっては、「責任」を取ることなどは、いうまでもなく当たり前のことでしかない。
それは、生きるということが当然もたらす結果でもある。
しかし、そのことが、幼児的精神段階の人にはわからないということなのです。
その理由は、突き詰めれば、「思考の起源」で見て来たように、内的完成性への執着と、内的完結感だけが「正義」にバケる、ひとりよがりで済む感じ方にある。
ようは、一見は外を向いていても、本当は、自分の内側にしか向いていない独善的精神が働くために、自分のためだけに良かれと思える結果でしか、納得のできないでいる無意識の働きにあるのです。
私たちは、その「働き」を結果としては知ることができる。
しかし、それこそは、「責任」を持って存在できる段階になって、初めて澄んだ気持ちを安定させることで、見ることができるものなのです。
社会の存在になることによって、自分を第三者の一人にすることができるからです。徹底的に、また冷静に客観視することができる。
自分に囚われているだけの段階では、これはできません。
子どもの内は、または「責任」が持てない内は、「ふり」はうまくても、さらにその情熱が尽きることはなくても、気持ちは、甘えの方に向いているのです。
いかに、甘えを得るか、ということに。
ここでいう甘えとは、「甘えの基礎構造」で見たように、現在に掛かる「責任」の圧力からの解放のことです。いわば、責任逃れですが、ただの責任逃れとは奥行きが違う。
「責任逃れ」の果てにたどり着こうとするのは、責任がある場合をも遥かに越えるほどの理想郷への到達だからです。
「責任」がないからこそ、責任がある場合よりも遥かにとほうもない夢が見れる。
ただし、現実との接点はありません。
そして、「責任」がなければ、しょせんどんな夢もかないません。だから、結果としては、人の責任能力を頼ることになるのです。まったく無自覚の内にもです。
ここには、世間でいうモンスタークレーマーと言われる人たちや、ストーカーをやる人たちの精神性を理解するカギもあります。
テレビでストーカーをやっていた人たちのインタビューが流されていましたが、それを聞いていると、自分に気が済まないことがあると、「あぁ、もう自分は何をしてもいいや」とスイッチが入るのが分かるということを語っていました。
自分の中で「許しが出ている」、ということでしょう。いわゆる、自分勝手な感じ方というものです。
人は、生きているだけでさまざまな取り決めを持っているので、心の中には、いくえもの「約束」で、いっぱいの決まりごとがあります。
その中で、甘えの衝動に流される人は、自分勝手な取り決めを、自分に対してしてしまう。それも、およそまったく無自覚にです。
これと同じことは、ストーカーの場合以外にも、一般的に無責任が目立つ人にも、心の力学として見つけることができる。
それというのは、現実に生きればどうしても取らねばならない「責任」が見えて来るので、責任を回避するための、意識の合理化回路が繋がれ出して、無自覚の内にも責任逃れが通る「解放」の道筋をとってしまうのです。
「責任」のない人が責任逃れをやり出すと、結局は、責任のなすりつけになることが多い。自分では「責任」が取れないのだから、当然の結果です。
それを、自分専用の合理化回路でやってしまう。
ストーカーがひとりよがりな責任転嫁のスイッチを入れてしまうのも、自分が「責任」を取るという結果がいたたまれなくて、逃げの回線を勝手に繋いでいってしまうのも、「責任」という軸を欠いた甘えの可能的回線が意識を保持させてしまっているからなのです。
自分からの選択というものは、時にして、自分でも唖然とするほどの自分勝手を繋いでいってしまうものです。
それが自分がしたこととも思えないようなことでも、人の無意識は繋いでいってしまうことがあります。
「意識」というものは、しょせん無意識の精神機能の上に乗った上部構造体なので、意識している部分だけで生きることはできません。
しかし、意識と無意識は、別物ではない。どちらも、唯一の自分だからです。
そして、自分の「責任性」に中心を据えて生きるなら、どのような無意識の反応をも、「責任」の社会性を介して理解に変えることができる。
ただし、無責任な人のように、無責任を「責任」に変えることはできません。
抽象的な話しですが、実際の無責任行為は、個々具体的です。
そして、無責任な人は無責任なことを自分でも止めようがない。まったく無自覚でありながら、決して止めません。
と言っても、人の責任性の自覚も、段階を追って進むものなので、「責任」ある主体化の確実感に目覚めることができる人は、いくらでもまともな共感の道を進むことができる。
しかし、一方では、どうしても「甘え」の解放感にひたり続けて生きてやろうとする人たちも、いるものなのです。
甘えの合理化回路は、そうした人たちが取る、無意識にも意識が向かう解放への夢の通り道です。
それは、夢の中で、さらにあり得ない理想の姿へと繋がっている。
逆に、このことには、「私たち」は共感ができる。それは、私たちは、私たちを見ることができるからです。
自分の内的世界に囚われた人たちには、自分にも、他人にも本当の目は向かない。その目は、自分にしか向いていないからです。
甘える人は、赤ん坊と同じところがある。それは、赤ん坊は泣くことしかできないために、親の方がかんしゃくを起こして怒鳴り出したとしても、さらにもっと大きな声で泣きだすことになるのと同じことです。泣くことしかできない赤ん坊は、怒られたら、もっと泣く。
泣くことしかできないのだから、当然です。
甘えることしか思いつかない人も、甘えられなければ、もっと甘えようとするのです。
先に見た、ストーカーのスイッチの例でも、やはり同じことが言えるでしょう。
甘えることしかできない人は、思うように甘えられないと、もっと甘えようとする。そして意識は、そのための合理化回路を作ってしまうのです。
自分でも、どうしようもないままに。
しかし、人はいつまでも「赤ん坊」ではありません。
そして、意識のある人は、社会が追及する「責任」の前には、一瞬で立ちすくみ、果ては驚愕の顔に変わってしまうものです。寝ぼけたように生きている相手なら時間は掛かるかもしれませんが、結果が変わるわけではありません。
主体者にとって生きやすいのは、「社会」とは、私たちだということです。
自分で対応しきれないことは、社会の力を引き込んで解決する。それが基本です。
そして、いつもそうすることによって、なお一層、いざとなって困ることもないのです。
存在は、内にこもるものではなく、外に向かう者通しの表れなのです。