人は、人の間の力学が働く世界に生きています。
当然、その中に生きようとする「人」は、自分でも知らずして、良好な関係を築き、それを信じようとします。
そして、この「信じる」ということには、人自身の意識の内に階層があって、何を信じるかについて、自分でも思い通りにならないところを持っています。
まず、私たちは、何かを信じようとしたり、信じることを決めたりする前に、勝手に何かの物事の表れを「信じている」ことがある。
自分自身でも、気づいた時には、何かの物事を信じきっているとか、疑うことが許されないことと感じていたりする。
ようは、この「感じる」というところに、信じることの始まりはあると捉えられることになるのです。
では、それはいったい何を感じていて、信じることと何の関係があるのか。
私たちは、生まれた時から、周りに人々のいる世界で生き、周りに助けられて生きています。
嫌も応もなく、そうです。もとより、生まれたばかりの赤ちゃんの頃なら、人を頼って生きるしかありません。
無論、自分の力でも生きようとしていますが、本当に自分の力で生きていけるようになるには、長い時間がかかる。
そして、人間は、たとえ大人になっても、人と人の間で助けあって生きることを生き方の芯としなければ、しょせん、ごまかしのある人間にしかなれません。
助けあって生きることは、社会的「生」の変わらぬ本質だからです。
となれば、信じるということの土台は、私たちの社会生活に主な基盤を持つことは見えて来ます。
そして、さらに私たちは、社会的存在であると言っても、自然の産物なので、人間自身の自然的な条件がもつ「生きる力と、その限界」にも、決して変わり得ない生き方の土台があります。
だから、ごく当然に、私たちは、私たちの持つ力と、それらの限界に照らしたところで、そこから自分の生きる道にとっての「何を信じればいいか」が見えて来ることになるのです。
何を信じれば、自分の生き方に確かな道があるか。
何を信じれば、自分の「繋ぎたい」生き方に進むことができるか。
人は、そうしたことを考える時、考える以前に「信じられる」ものを探っているところがある。そこから初めて、これなら信じられるはずという思考が組み立てられて来るものだと思います。
私たちにとって、およそ無意識の、人の生き方の繋がりの土台から、「信じる」ことはやって来ます。
そして、現に信じて生きることで、信じていたことの効果が試される。
中には、信じていたことと違うということもあるでしょう。いや、世の中の大半のことは、うかつには信じられないことばかりだと思います。現実というものは、やはりそんなに甘くはない。
ただ、逆に裏切られても、どうしても信じる気持ちをやめられないこともあると思います。
こうした人の心情には、人の「生き方」にとって一貫したものがあるのです。
それは誰にでもあって、色々な表れをするにしても、人が信じるべきものとして不動のものとしているものは、自分の人生に大きな意味を持つ、それなしでは考えられないほどに自分の人生街道と一致して来ている、生き方の「繋がり」を意味するものなのです。
人が、「忠誠」を誓うべきものとは、およそこのランクにあるものが本物でしょう。
人の忠誠心が、はたから見ている他人からは、何か奇妙なものに見えることも、忠誠というものが、自分の人生街道を決定してしまっているほど、自分でもどうにもならないほど重たいものだからということでしょう。
人の持つ忠誠心も、実際は複合的なものなので、一つだけということはほぼないでしょう。そして、忠誠のあり方というものも一つではなく、自分の人生を決定して来るに合わせて、変化して来るものでもあるでしょう。
そうしたものが、私たちの知っている忠誠心のはずです。
結果として持っている忠誠心は、人に、わざわざそんなことをする必要がないんじゃないか、というような一見不合理なこともさせるものです。
そして、私たちが、普通にはまったく理解できないような不可解な要求や文句を突きつけて来る、人のことも自分のこともろくに考えていないような人たちにも、忠誠心はあるのがわかるのです。
そうして困った人たちの困った態度を理解するのにも、「忠誠」の力学は大いに役に立ちますが、それはまた次の機会にしたいと思います。
最後に、「忠誠」の心理というものは、思考の起源で見て来たように、人の意識を作る「約束」の力学と根本的に繋がっています。
人の忠誠心は、心の根本では、自分の「約束」にとっての意味をたどろうとします。
だから、忠誠心というものは、単に無ければ困るというだけでなく、自分自身が自分の忠誠を裏切れないという根本力動を持っているのです。
みずからの忠誠が、自分の人生の深い思いに合致するほど、自分でもその思いを裏切れなくなる。自分にとっても、その選択肢がなくなる。
そのことが、そもそもの「忠誠」というものが持つ、根本的性格になるものだからなのです。